『名月赤城山』

「 ♪♪ 合羽~ からげて~ 三度笠~ どこをねぐらの渡り鳥~」こんな歌を知っている人は本当に少なくなりました。「終戦後」間もなく、から「昭和の高度成長期」に入る頃が、「股旅演歌」の最盛期だったと思います。この歌詞は「三波春夫」も歌った「雪の渡り鳥」の出だしの一節です。懐メロの「股旅もの」と言えば、「旅烏」「旅笠道中」「流転」「名月赤城山」「大利根月夜」それから「次男坊鴉」、等々本当に沢山あります。当時、「股旅歌謡」と「股旅舞踊」は大衆娯楽の一角を担っていました。「船橋ヘルスセンター」ではドサ廻りの一座がいつも舞台で大活躍していました。そして私が知っている歌と言ったら全部が「股旅演歌」だったのです。

我が家の隣には、竹を組んだ垣根を挟んで「村の集会所」がありました。(現在は我が家の庭が道路になってしまったので、今や道路の向こう側となっていますし、集会所は他所に移りました)

この話は、私が未だ小学校の高学年、そんな頃の出来事ですから、かれこれ60年前の話になります。誠に古い話で恐縮です。でも、今回は「盆」にふさわしい出来事を、と思いましたので大昔の事を書こうと思います。だって「盆」の間は、先祖達の霊がそこいら中にいて、久しぶりの子孫との再会を喜んでいるはずですからね。

昔、「盆」が終わると我が村の集会所は、にわかに「にぎやか」になりました。しかも、それは夜の時間帯にです。というのは、私の部落の「村祭り」は10月15日なのですが、「村の青年団」がその「大イベント」に向けて、準備を開始したからです。子供にとって、いや大人にとっても、「祭」は「盆や正月」以上に楽しい出来事でした。祭りの計画も、下準備をするのも、練習をするのも、全てが集会所で行われました。

我が家からは、庭に生えていた梅の樹の枝を透かして、集会所の様子が手に取るように見えました。盆が過ぎて、少し涼しくなった頃に、毎晩のように青年団は、割れているような音を出す「電蓄」(当時は電気式のレコード再生機をこのように呼んでました)の音量を目いっぱいに上げて、股旅演歌を流していました。窓を開け放った室内、裸電球から漏れ出た光は暗闇にまぎれた梅の葉をチラチラと照らしていました。いつも、十数人の若者が電球の下で動き回っているのが見えました。そうなんです、青年団は祭りに掛けられる「村芝居」の練習をしていたのです。祭りの時、この若者たちは「大スター」に変身するのです。だから皆さん真剣だったと思います。

彼らが祭りの舞台で踊る「股旅舞踊」は祭りのハイライトでした。彼らは、「♪ 合羽からげて~三度笠~」とか「♪ 何処へ行くのか次男坊鴉~」とかの流行歌に合わせて、何灯もの裸電球が照らし出す舞台で踊るのです。今にして思えば、曲目は毎年同じでした。だから毎年変り映えがしませんでした。しかも踊りの「振り」は先輩格の若者が後輩に伝授するだけですから、いい加減なものだったと思います。でも当時はテレビも無い時代だし、「隣のあんちゃん」が舞台で踊るのですから、それはそれは大変なも、「大喝采」だったのです。正に祭りは「村のアンチャン」が「大スター」になる日でした。そして何といっても、最高の見せ場は「名月赤城山」の芝居でした。これも毎年同じ演目でした(これしか出来なかった)が、青年団俳優は、セリフが暗記できないので舞台のあちこちにセリフを書いた「アンチョコ」を張っていました。

私の記憶でしかありませんが、この村芝居、「名月赤城山」の筋書きを紹介しておきます。  ≪国定忠治は赤城山一帯を「博打場の縄張り」としていた「博徒の親分」でした。ある時、忠治はつまらない事で、関所破りをしたのです。そして役人に追われた忠治は昔世話をした「勘助」の家に逃げ込みました。勘助は昔の恩義を忘れてはいませんでした。勘助は忠治を何とか逃がそうとして、役人の手助けをする振りをしたのです。御用、御用と言いながら逃げ道がある方へ忠治を追い立てました。忠治にはその意味が解りませんでした。その時、忠治はその場を何とか切り抜け、逃げ延びたのです。しかし、忠治は「裏切り者の勘助」を許せなかったのです。(私が思うに、忠治って余り頭が良くなかった) 勘助を裏切り者と思い込んでいた忠治は、後日、勘助の家に押し入って勘助を襲います。忠治は大した抵抗をしなかった勘助を切ってしまいました。勘助は「いまわの際」に、「親分が役人に追われたあの日、自分が役人の助っ人したのは、恩義のある親分を何とか逃がそうと考えて逃げ道を教える為だった。」と言って息を引き取ったのです。忠治は早まったと後悔したけれどもう手遅れでした。その時、死んでしまった勘助の近くで赤子の泣く声がしたのです。忠治は驚いてその子を抱き上げます。勘助の子供でした。勘助の女房は病気で亡くなっていました。勘助は一人で赤子を育てていたのです。勘助を切った事を強く後悔していた忠治は、その赤子を自分が育てる決意をしたのです。≫ 

この時の忠治の心境を歌ったのが、「東海林太郎」によって歌われた「赤城の子守歌」です。赤ん坊の名前は確か「勘太郎」だったと思います。「勘太郎月夜」と言う股旅演歌がありますが、この勘太郎と関係があるのかどうかは知りません。

話は長くなりましたが、我が部落の青年団が活躍したのは4.5年くらいの間でした。時代が進みテレビが出て来たし、毎年同じ中身の舞台に皆が飽きて来た事も事実です。それとも、メンバーも年をとって「バカ騒ぎ」が嫌になったのでしょうか? それと、世間が忙しなくなって来たせいも、きっとあるでしょう。そして、時代の流れと共に「青年団」は消えてなくなってしまいました。それはともかくとして、この「名月赤城山」舞台、背後を飾る「背景画」を描いたのは私の父親でした。その絵には「深い赤城山」と「杉木立の林」が描かれていました。それと共に、「地蔵様」が描かれていました。その地蔵様、実は、私の父親が私を大きな布の前に立たせ、電気で照らして私の影を作って、それを地蔵の原形にしたのです。この背景画も毎年使われていました。だから、私の影は毎年舞台の背景を飾っていたのです。

あれから60年が過ぎ去りました。あの時の青年団員、もう大半の人が亡くなってしまいました。私の叔父が青年団結成当時の団長をしていましたが、その叔父も何年か前に亡くなってしまいました。未だに当時若者だった青年団の印象が蘇ります。小さな事までが、本当に楽しく感じられる時代でした。

注:残念ですが、当時の写真は手元にありませんので掲載出来ません。

『盆』

昔は楽しい事の代名詞のように言われていた「盆」と「正月」。特に楽しみが大きい時は、「盆と正月が一緒に来たようだ!」と、こう言ったものです。それが今では、「盆」も「正月」も「ちょっと長い連休の期間」でしかなくなってしまいました。テレビではおざなりに盆の様子を流していますが、帰省ラッシュとか、高速道路の渋滞とか、気の抜けたサイダーみたいな話ばかりです。日本が豊かになったせいなのでしょうかね? 言い替えれば「一年中、盆と正月が来ている様なもの」となるのでしょうかね? 私の中に、「これでいいのか?」と強い疑問と懸念とが入り交ざった感情が沸き上がって来ます。

ところで、我が家は今年も大きな支障を抱える事無く、迎え盆の準備をする事が出来ました。「我が家」と言っても、実際に盆の支度をするのは私とカミサンの二人だけなのです。私は古いタイプの人間だから、なるだけ昔のままの形で盆の行事を迎えたい方ですから、自分が準備をするのは当然の事だとは思います。 でも、カミサンはクリスチャンだから盆の行事とは無関係のはずです。もっとも、私も仏教を信仰しているわけではないので、盆が仏教的にはどんな意味を持っているのか、先祖の霊が返って来るのを迎える日、位の事しか知りません。ただ「伝統を絶やしたくない」、そんな思いでいるだけです。ところが、私より仏教から遠い位置にいるはずのカミサンですが、毎年熱心に迎え盆の支度をしてくれています。私よりも遥かに盆の行事について詳しく知っていて、こちらが忘れている事を指図するのですから、カミサンにはちょっと頭が下がります。お寺に「盆供」を持って行きなさいとか、早く「墓掃除」をしないと近所の人に笑われるとか、花を注文したかとか、明日は朝早く墓に行くんだからね、とか毎年尻を叩かれているのです。

私は、「今やろうと思ったのに」と言い訳をしながら、今年も仏壇の棚吊りをしました。父親が亡くなる前から私は棚飾りをしていたので、私がやるようになって、もう15年位にはなります。別に誰かに教わった訳でもなく、見よう見まねでやっているだけですが、大体は昔と同じような形にはなっていると思います。

私が行う棚吊り作業ですが、まず仏壇から全ての位牌を出して濡れ雑巾で拭う事から始まります。毎年の事ですが位牌を拭いている時に、我が家の先祖が確かにいた事を意識します。子供の位牌は薄い板に戒名らしき名前が書いてあるだけです。その板が実に多いのです。恐らく子供のまま亡くなる先祖が多かったのでしょう。我が先祖には特別に偉い人がいた訳でもないし、立派な位牌がある訳でもありません。ただ古いだけの事です。古くて文字が薄くなり、読めなくなっている位牌もあります。興味深いのは、時代時代によって「この先祖の時、きっと貧しかったに違いない」とか、「この先祖の時はちょっとは余裕があったらしい」とか、位牌の質で解ります。ただの板切れみたいな位牌もありますからね。だだし大昔我が家の隣の寺が火事を出し、我が家も燃えてしまったらしいのです。だから、結構古い墓石はありますが、それ程古い位牌は無いのですけれど。 そんな事を考えながら丁寧に位牌を雑巾で拭いていると、「こんな事をするのも、自分の代で終わりか」のような「感傷じみた思い」が浮かんできます。  我が家の、「倅も孫も」こんな作業には全く興味が無いので、目もくれません。 

棚吊りの話の続きですが、それから、庭の草花を摘んで来て仏壇を飾り、燈篭を組み立て、提灯のとロウソクの支度をします。そして、最後にカミサンが仏壇に花を供えて「迎え盆の準備」は終わりになります。

その後は、いつもの休日と変わりません。お茶飲んで一休みして、「今年は隣近所では、棚吊りをどうしたんだろうか?」とか、そんな話をした後で、「何時までこんな形の『盆』が続けられるんだろね?」と、ひとしきり喋ったのも去年と同じでした。

 

思えば遠くへ来たもんだ

昔、「海援隊」が歌った唄に「思えば遠くに来たもんだ」と言うのがありました。この歌詞の概要は、ある少年「T」が14歳の頃、線路脇のコスモスを揺らして走る貨物列車が作る「レールの響き」を聴いて、遠くの世界に夢を馳せていたのです。少年は二十歳になって失恋し、遠くの世界に旅立った。そして家を出てから三十年が過ぎ、今では妻子を持つ親父になった。そしてその主人公は、昔を懐かしみ「思えば遠くへ来たもんだ」と静かに歌う。そんなストーリーです。

最近、我が家で「昔の話」をした時よく出る言葉、「あれから、もう30年位は過ぎたかな~」です。 以前は、「10年前の話をしている年寄りを馬鹿にしていたのに、今や30年前の話を平気で昨日の事のように話してる。俺たちも年をとったもんだな~」なんです。我がカミサンとの縁が出来て、はや50年が過ぎました。だから、30年前の話なんて「新しい」部類に入るのです。ほんとに、遠くへ来たものです。

これまでで、私が行った距離的に一番遠い場所はモロッコだと思います。そして距離的には半分しかないのに、所要時間として一番遠い場所は「ラオス」です。

でも「心理的な時間軸で、現時点からの遠さで」考えると「マレーシア」です。今でも鮮明に残像として残っているのはマレーシアの「フレーザーズ・ヒル」という山の上です。当時その山頂にはヨーロッパ風の小さな町がありました。  今なら山裾の国道から1時間半もかければ行けますが、当時は遠かったのです。そこまでの道は、時間帯によって「上り専用の時間、下り専用の時間」となるような場所もあって、狭くて曲がりくねった砂利道の悪路でした(今は細いながらも舗装されているし、対面通行が可能)。その頂上から20分程下った所に、落差が5m位の小さな滝があります。滝は、池のようで滝壺とは言えないくらい小な円形の水盤に落ちていました。水は茶色に濁っていましたが、山の土が混ざったもので不潔ではありませんでした。そのプールのような水盤で、数人のインド人家族が水浴をしていました。私は友人に、自分も水に入りたいとせがみ時間をもらいました。そしてシャツを脱ぎ、下は短パンのままその池に入りました。

水は冷たくなかったし、滝のしぶきも程良かった。仰向けに浮かんだ水面から眺めた上空には、鼠色の雲が薄い水色の空を背景にゆっくりと流れていました。まことに快適な水浴が出来ていました。その時、私は水に浮びながら不思議な感覚に陥っていました。すぐ近くで色の黒い子供達の声が響いているけれど、何を言っているのか全く解らない。この場所にいる日本人は自分一人。ここは赤道直下、マレー半島の真ん中付近。今ではインターネットで簡単に地図が見れますが、当時の世界地図には、こんな場所は載っていません。不思議な感覚とは、自分がこの場所にいる事をどうしても実感出来なかったのです。それでも、私は確かに濁った水に浮かんでいて、周りには知らない言葉が行きかっていたのです。地球儀で見れば赤道付近の極小の点よりもっと小さい点なのに、何故か自分がそこにいるのです。その時です、私は「遠くに来たもんだ」と心底思ったのです。それまで、海外なんてテレビで見るもので、自分が赤道直下の滝つぼで泳ぐ時が来るとは想像もしていませんでしたからね。 極小の点でしかない自分、孤独な日本人はそこにいるのです。今だに、その30年前の不思議な感覚が蘇ります。「思えば遠くに行ったもの」です。そしてその出来事は、現在では「本当に遠くなった」のです。

カミサンにその話をすると、「その話はもう何十年も前から、何回も聞いている!」と愛想の無い返事が返って来ます。こっちもヘソを曲げながら、「たった30年しかたってない話なのに!」と反論すると、「フン!」と鼻で軽くあしらいます。「畳」と「何だか」は新しい方が良いと、大昔から言われてますよね。      いやはや、思えば遠くに来たもんです。

『 ・達 ・成 ・感 』 が無い。

最近、私は大した努力をしている訳でもないのに、日常生活は平穏無事に過ぎてゆきます。大きな心配事も無いし、周りとのトラブルが有る訳でもありません。こういう状況って良い状態なのでしょうか?  努力無しで得られる「平和」や「幸福感」、こういう状態は長続きしない感じがします。

自然界の揺らぎ、水面の波、小川のせせらぎ音、季節の移り変わり、砂丘の風紋、潮の満ち引き、・・・自然界は揺らぎに満ちています。周期的に繰り返すから延々と続くし、「安定」がもたらされるのです。               人生に於ける揺らぎ、それは「苦と楽」です。「苦」があるから「楽」に価値が出ます。もし「人生が楽だけ」だったなら、多分その「楽は苦に変わってしまう」でしょう。「楽」の次には「苦」が来ます。だから「楽」状態にある時、人は不安を感じるのだと思います。次には「苦」が来ると感じているからです。

近頃「達成感」を感じる事が殆どありません。ところで、「達成感」は血の滲むような「努力」をしなければ得られないはずだから、「達成感が無い」というのは言い換えれば「努力をしていない」という事になるのです。最近の私は「自分は努力不足だ!」の感を否めません。努力をして何かを成し遂げようと考えた途端に、「努力を続けたら、どんな良い事が起こるの?」そんな思いが湧き上がって来ます。若い頃はそんな風では無かったから、これも年のせいでしょうか?

何かをしようとすると、「暑い、暑い、もう嫌だ」と思う反面、「社員の皆さんはこの異常な暑さの中、文句も言わずに頑張ってくれている」そんな自分の内心からの声が「罪悪感」となって迫ってきます。こっちは冷房のある部屋の中にいるのに、向うは天然暖房の工場なのです。しかし、会社をもっと良い作業環境にしたいと思っても、「我が社のような中小企業、手の打ちようが無い」これが現実です。「大手企業、夏のボーナスが過去最高!」こんな報道はさせたくない!

努力で解決出来る限界を越えている「昨今の社会情勢」が、「少々頑張ったくらいで良くなろうなんて、甘い!甘い!」と、あざ笑わっているように思えます。自分が努力不足の感覚に陥っている原因は、単に「年のせい」だけではないかも知れません。

アメリカ 1

国土が広大な国には「真っ直ぐな道」が多い。当たり前の事です。ところで、真っ直ぐな道が見える風景と、曲がりくねった道が見える風景、あなたはどっちの風景が好きですか?

私は「真っ直ぐな道」の風景は余り好きでは有りません。変化が少なくて面白くないからです。緩く蛇行しながらどこまでも続く田ぼ道は、多くの人々が心に描く日本の原風景の一つだと思います。昔はそれらの道は大抵は「砂利道」でした。今はそれが舗装道路に変ってしまいました。私は、風景としては砂利道のまま残って欲しいのですが、そうは行きませんよね。田舎の細い道に惹かれるのも確かですが、一方で広大な大地も魅力的ですね。

ずいぶん昔の話になりますが、私が始めてアメリカに一人で行った時の事です。私のアメリカ体験、友人に連れられて、様々のアメリカ事情を教そわりながら、行った旅それが始まりでした。次がこの時の一人旅です。レンタカーを借りての、シアトルからスポーケンまでの往復でした。教わっていたアメリカについての知識が、この時の一人旅では随分役に立ちました。最初の旅でもシアトルには行きましたが、その時は、南へ向かいました。東へ向かって山越えをする旅ではありませんでした。同じ場所だったのに、シアトルの印象は全く違いました。何しろ一人ですから、助けてくれる人はいないし、僅かな知識しかないのです。レンタカーで走り始めた直後は相当緊張していました。

私は、高速道路が余り好きではないので、多くの場合旧道を行きます。シアトルから東の方向へ「ルート90」で行けば、スポーケンまで一本道です。でも、私はあえて山中のダム湖の道を遠回りして行きました。道は細かったし舗装もしてないところがかなりあったし、危ない目にも結構合ました。けれど、山中の道を走る事に私の好奇心がそそられました。最初の旅ではシリコンバレーのような乾燥地帯も走りましたし、さすがはアメリカだと思った場所がそこかしこにあったのですが、一人で走る山道は日本の「北海道や中部山岳地帯」と余り変らない感じがして、気楽な気分になっていました。「何だ、アメリカなんて日本と同じようなもんじゃないか」、そんな気分だったのですが、もう少し「異国にいる気分も欲しい」と思いつつの運転になっていました。

山中をあちらこちらで道草を食いながら何時間か走ると、いつしか緩く下る坂道が続くようになりました、曲がりくねった道を一時間も下ったでしょうか、急に、視界を遮る木々がなくなる場所に出たのです。左右に連なっていた山々が遠くに退きました。次には、そこに、大平原(大農園)が現れたのです。真っ直ぐな道が視線の届く限り伸びていました。今まで、グタグタと自分の中にわだかまっていた、「アメリカなんて日本と同じようなもんだ」と言う気分は、一気に吹っ飛びました。私が走った道は、大抵がハイウエーと平行している旧道でしたが、その場所もそうで自由に停車が出来ました。私は思わず車を止めて、そこの地面に立ちました。遠目には、ハイウエーをトラックが疾走している姿が微かに見えました。私は道路脇の地面に立ち、そこで飛び跳ねて見ました。足の裏で地面を感じ取って、「これがアメリカの大地か」と思わずつぶやいていました。そこにしゃがみ込み、地面の土を触り、手の平で地面を叩いていました。「ここはアメリカなんだ!」と、何度も再認識しました。

こんな側道を走る物好きはなかなかいません。地元の住民の生活道路ですから、車なんて滅多に通りません。遠くを走るトラックの群れが、途切れ無く動いていました。鈍い、小さな音が、地面を這うように伝わって来てました。もっと広大な地平線まで見通せる大平原は、地球上には、いやアメリカにだって、幾らでもあるでしょう。でもこの「大平原」こそ、「始めて私が感じたアメリカ」なのです。

探し物は何ですか?

♪♪ 探し物は何ですか~?、 ♪♪ 見つけにくい物ですか~?               これは、井上陽水が歌った「夢の中へ」の出だしの歌詞です。

あなたの探し物は何ですか? 簡単に見つかる物なら、熱心に探さなくたって見つかるはずだから、きっとそれは「見つけにくい物」なんでしょうね。 望遠鏡で探しても見つかりませんか?

携帯電話? 車のキー? 使い慣れたメガネ? 読みかけの本? 「さっきまでここにあったのに、いったい何処に行ったんだ!!」 置き忘れたのか? 落としたのか? どこにあるんだ?・・・よくある話です。 「きっと盗まれたに違いない」こう思うようになったら、それは「認知症の始まり」だと言われてます。 誰もそんなもの欲しがらないから、盗みはしません。盗んだってしょうがないでしょう! でも、そう思い込むのが「認知症」らしいです。

だから陽水さんが歌っている「探し物」は「こんなたぐい」では無いはずです。   それじゃ、「あなたは何を探してるんですか?」 「俺が探しているものが何かって~! それが解りゃ苦労なんかしないよ!」こんな訳の解らない事を言う人もいます。 ≪何かを探してるんだけれど、自分が何を探しているのか解らない!≫ この一見「矛盾」しているような、意味の無いような「問題」、私はこれこそが「長い人生で、最大の難問」だと思っています。

「井上揚水」作詞による「この歌の凄さ」はここにあると思います。何を探してるんだか解らないから、それは「見つけにくい」のです。きっと死ぬまで見つからないでしょう、だって「何を見つければいいんだか解らない」のだから。 結局のところ、大抵の人は一生「何か」を探し続けるのです。では、「何か」とは何なのでしょう。 この「何か」とは、「何のために生きているのか?」と言う「哲学じみた問題の答え」ではないかと、私は思っています。

この究極の難問、「答え」を探すのではなくて、「無視」をするために、人々は代案を考えます。 私が探しているものってのはネ~! 「一生の伴侶となる素晴らしい人で~ス」とか、「何でもいいから、世間の注目をあびたいので~ス。その道を探がしてま~ス」とか、「誰よりも幸せな家庭を探しま~ス。何処を探せばいいか教えて下さ~イ」とかね。 もっとも、「俺かい? 俺はそんなシチ面倒くせェ事ァ、どうだっていいんダ。毎日が面白きゃ、それでいいんサ」中にはこんな人もいるでしょうね。

「人生の道」って、どうなってるんでしょうかね?

先日、私のサイフが見つからなくなりました。 会社の中か家の中、どちらかで無くしたに違いないと思ったけれど、思い当たる場所をどんなに探しても見つかりません。現金は大して惜しくはなかったけれど、法人カード2枚、個人のカード2枚、給油カード、ETCカード、免許証、これらが無いと困るし、悪用されたら、なお困る!! 私はかなり焦りました。

カミサンに聞いても「何処で失くしたの?」と言われる始末です。「何処で失くしたのかが分れば、そこに行って拾うよ!」と言い返しましたが、記憶の限りを尽くして、状況を反芻しました。  ≫≫便所に行こうと思って、ポケットからサイフを取り出したのだが、なにも便所に行くのに財布は出さなくてもいいんだ、と気が付いた。そして何かをしたけれど、何をしたのかが解らない。≫≫  これが最後の場面です。そこまで来ると、その先の記憶は途切れてしまうのです。その場面は確かに会社の事務所の中です。だから事務所は何度も探した。でもそこには無かった。 私は「記憶のテープ」を何度も巻き戻して再生しました。でも、いつも同じ場面になると雑音が入って、画像が途切れてしまいます。

私は、頭を冷やしたその翌日、会社の事務所の同じ場所を徹底的に探しました。結局、何と「本箱と、その前に置かれてあった段ボール箱との狭い隙間」、そこの床にサイフは落ちていたのです。

私の推測ですが、 ==その時、犯人はトイレに行きたくなったので、何気なくサイフをポケットから出した。だが瞬間的に、便所に財布は持って行く必要はないのだと気が付き、本箱の棚の上に置いた。だが無意識に置いたので、棚から落ちそうな状態で置かれていた。無意識だから置いた事すら意識に残らなかった。それがチョットした加減で下に落ちた。不運にも、そこには段ボールの箱が置いてあり、細い隙間が出来ていた。サイフはその隙間に落ちたのだ。 犯人は必死で自分のサイフを探した。だが見つからない。 事件の捜査が始まり自分が疑われた、完全犯罪をしたつもりだった。現場検証で事務所のダンボール箱が全て片付けられた。 そこには犯人があれ程必死で探していた財布が、事も無げに落ちていた。サイフの中には、犯人のアリバイが崩れる根拠となる「メモ用紙」が入っていたのだ。完全犯罪にはならなかった。==  これが私が推理した「サイフ消失の謎」と、その「解き明かし」です。全く単純な仕掛けでした。  

サスペンス作家ならば、こんな些細な事を「ネタ」にして「完全犯罪が壊れてゆく台本」を書くかもしれません。

 陽水さ~ん! 私の探し物は「サイフ」でした~! 見つかりました~。

「義理」と「人情」の世界

義理と人情を秤にかけりゃ~、義理が重たい男の世界~

「高倉 健」が歌った「唐獅子牡丹」の歌詞の一節です。この歌を、私の「小学校時代からの友人」が、酒を飲んだ時によく歌ってました。酒が好きで、「酒癖が悪くて」どうしようもない奴でしたが、学校時代は級長でした。その彼が、足掛け5年前、突然亡くなってしまいました。残念で悲しい出来事でしたが、酒が遠因の脳梗塞でした。

彼は時々、夜のかなり遅い時間帯、会社帰りに酒を飲んだ足で、我が家へ、蘇我駅から自転車を引いてフラリと来ました。彼は東京の会社に通っていました。我が家には酒がない事を知っていたので、彼は持参した酒を「手酌で飲み」、ひと仕切り「くだを巻いて」から、また自転車を引いて家に帰って行くのでした。彼の背中には、「網走番外地」を連想させる「哀愁」が漂っていたような気がします。ある晩、酔って帰る時、彼は我が家の庭で石につまずきました。転んだ上に酔いが回り、立ち上がれなくなってしまったのです。私は、無理やり自転車を家に置いて行かせ、車で彼の家に送って行ったのでした。私は時々、そんな事があった彼を懐かしく思い出しては、しんみりとした気分になってしまいます。

その彼は、「網走番外地」の歌もよく歌っていました。どうして彼がこの手の歌が好きだったのかは解りません。彼は典型的な「マイホーム主義者」だったからです。それなのに、どういう訳か、任侠物」が好きだったのです。

ところで「義理と人情」はどっちが重いのでしょうかね? 「義理と人情」は「日本人特有の感性」から生まれたものなのでしょうかね? 考えてみると、昔から日本人は「人情話」が大好きだったようです。 江戸時代に「近松門左衛門」が書いたとされる「浄瑠璃や歌舞伎」は、110作品も有ったようですが、そのうちの四分の一くらいは「世話物」と言われる、「義理と人情をテーマにした作品」らしいです。

「人情」と言うのはスンナリと「我々の気持ちの中に入ってくる」気がしますが、「義理」となると「そう簡単には受け入れられない気分」になります。  それは何故でしょうか? 私は、「人情」は「人の内なる思いから沸き上がって来る感情」だと考えています。 それ対して「義理」は「人と人との関係、貸し借りの関係から生まれてくる状態」だからではないか、と考えています。   言い換えれば、「自分の意にそぐわなければ行動しなくて良い『情理』が『人情』」であり、「自分の意に反しても、状況によって行わなければならない『条理』、それが『義理』」ではないかと考えます。社会生活を営む為にはどちらの事も、大切であり必要だと思います。

任侠物映画では、時々「網走刑務所」が舞台となります。正に「網走番外地」です。私は先日、「網走監獄」に入ってきました。でも無事に出て来れました。何故なら、そこは博物館になっていたからです。

この「監獄」は明治14年に、懲役が12年以上の「重罪人」を拘禁するために、「集治監」として建てられました。発足時の囚人数1392名、その内の3割以上が無期懲役囚だったとのことです。死刑囚は含まれていなかったようです。

明治23年、明治政府は北海道の中央道路の開削工事を急ぐために、「釧路集治監」から網走に囚徒を大移動させました。当時、極東方面に台頭して来ていた「ロシア帝国」の進出を阻む対策が、政府の急務だったのです。その為に、「道路の整備」は絶対条件でした。極寒の荒野を切り拓く為に囚人達が駆り出されたのですが、その労働は過酷を極めました。どうせ「監獄から出られないまま死ぬ人間達だ」、そんな考えがあったらしいです。怪我人や栄養失調者が続出し、死者は200人以上となったとの事です。余りの過酷さに看守人まで同情しました。かなりの数の看守も死亡したそうです。網走から北見峠までの160Kmを僅か2年で開通させたらしいです。「北海道は囚人の力で開拓された」、監獄内にはそんな言葉が掲げられていました。現在は北見峠に「慰霊碑」があります。

この監獄は、非常に上手く造られていて(建造物としても優れていた)、「脱獄は不可能」と言われていました。ところが、「脱獄した囚人」がいたのです。 現在は、監獄の中で「その囚人の人形」が脱獄シーンを演じています。「脱獄囚」であるにも拘わらず、当時からその囚人は「英雄」と思われていたのです。

もしかすると、私の友人は、この囚人と二人で「杯」を交わしているかも知れません。 一緒に茶碗を叩きながら、「網走番外地」を唄っているかもしれません。 それが、「天国で」なのか「地獄で」なのか、私には判りませんがね。

 

人と人の『縁』

「袖振れ合うも多生の縁」と、昔からよく言われ来ました。

人と人との出会いは「全て」が「単なる偶然ではなく」て、深い因縁によるもの。だから、どんな小さな出会いも大切にしなければならない。これは仏教的な教えに基づいた事柄らしいです。

この際ですので、仏教の教えについて調べた事を少し書きます。
「多生」とは、六道を輪廻(りんね)して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。「多生」を「多少」と誤解している人もいるようですが、もっと意味深い事らしいです。           輪廻とは煩悩の一つであって、・天道(てんどう)・人間道(にんげんどう)・修羅道(しゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道(じごくどう) を順繰りに廻る運命みたいなものらしいです。この輪廻から開放される事を「解脱」というらしいです。

「夫婦の出会い」なんて、道を歩いていた時、「たまたま自分の足が蹴飛ばした道端の石ころ」、その「石ころを手に持ったようなもの」。昔、誰かからそんな話を聴いたので、その事をカミサンに話したら。「それじゃ、私はただの石ころだったのね!」と怒られた事がありました。

世界の人口は70億人を超えたらしいです。この地球上に現れた全人類を合計したら数百億人かも知れません。その内のたった二人が夫婦になるのですから、すごい事ですね。もっとも場合によっては、相手が複数の人だって事もあるでしょうけれどね? 何れにしたって、カップルの「組み合わせ数」を計算すれば天文学的な数です。「宝くじで7億円が当たる確立」より、「現在の相手と結ばれる確率」の方が遥かに小さいはずだから、大切にしなければと「思ってはいるものの、・・・?」、です!。

私がよく考えることの一つに、「一人の人間が、一生の間に関わる事の出来る人の数はどれ程だろうか」? があります。普通の人ならば多くて1000人、少ない人なら100人、有名人であっても一万人くらいだと思います。フェースブックなどで「友達が2000人」なんて人がいるけれど、一体「何人の事を覚えている」のでしょうかね? それって、知り合いだと言えるんですかね? 私は、自分の一生で1000人との関わりが持てれば凄い事だ、と思っています。「70億分の千」と言う事は、700万人に一人です。今あなたの隣に座っている人が700万人の中から選ばれた一人だと思ったら! 「どの出会いも本当に貴重な事なんだ」と感じます。

小人(しょうじん)は縁あっても気づかず。                  中人(ちゅうじん)は縁に気づいても、それを生かせず。
大人(たいじん)は袖すり合う縁も縁となす。

私はこの「ことわざ」をいつも意識して生きて来ました。その結果多くの大切な人と出会うことが出来ました。自分の周りにいる人の全てが縁で結ばれているのだと感じます。「自分と血縁で結ばれる事の選択」は、自分の力ではどうにもならない事ですが、「他人との縁」は自分で作れるものですから、「授かった縁」を生かすも殺すも「自分次第」です。

私は、日本だけでなく海外にも多くの友人がいますが、どの人一人をとっても、その「きっかけは極めて小さな出来事(傍から見れば取るに足らない事)」でした。その小さな出会いが、自分の人生に左右するするほどの「強い関係」になったのです。ラオスで行動出来るのもそうです。マレーシアでも、ドイツでも、アメリカでも、オーストラリアにも、考えてみれば「不思議な事」ばかりです。

やはり、「多生の縁はあるのだ」と感じます。出合った状況は、「単に袖が触れ合っただけ」かもしれませんが、もしかすると「その出会いは前世から決まっていた事」で、「人間が関知出来ない領域にある『絶対的な力』が働いている」のかも知れません。こんな風に考えると、「どんな人間関係も疎かには出来ない」そんな思いを強くさせられます。

 

『ノアの方舟』

日本は、自然災害を被る事では「世界一」ではないでしょうか? 先日の西日本の豪雨に見舞われました地域の人々に対して、「大変でしたね。早急に生活が立て直せますよう、心から祈っております。」としか言いようが有りません。こう言いますと、「お前は薄情な人間だ、もっと何とか言いようが有るだろう!」と反撃されるかも知れません。でも私は「日本国民全てが一生懸命働き、みんなが税金を納め、社会全体で復旧復興を図るしかない」と、思っています。

暑い最中、本来なら家の中で、エアコンを効かせ昼寝をていられる所なのに、スコップを持って応援に行っている多くの「ボランティアの方々の行動」に、「敬意」を感じ、「実行力の凄さ」に関心しつつニュースを見ていました。日本も捨てたものではないかもしれません。その一方で、「役所だと偽って詐欺をしようとする輩」がいます。「悪質にも程がある」と、腹立たしい気分になりました。

私は「豪雨の映像」を見ながら、「ノアの方舟伝説」の事を考えました。   何千年か昔、地上の生活が少し豊かになり人口も増えて行きました。豊かさに伴って「人々は堕落」してゆきました。神は人々の堕落した姿を見て、人類を「水」で滅ぼす事にしました。しかし地上の生き物を完全に滅ぼすのではなく、「神と共に歩んだ正しい人」であった「ノア(当時500~600歳)」とその一族だけは救おうと考え、ノアに「方舟の建設」を命じたのです。神はノアに、その方舟に「地上のあらゆる生き物」の「つがい」も共に乗せるように命じました。

ノアは神のお告げを信じ、方舟の建設を始めました。周りの人々は享楽に耽りながら、「水もない場所に舟を造っているノア」を嘲り笑いました。ノアはそれらの嘲笑を無視して方舟を造り上げました。そして地上のあらゆる生き物のつがいを載せ、一家もその方舟に乗り終えた時、神は天地を鳴動させ雨を降らせ始めたのです。「ノアが造った方舟」に「便乗」しようと、人々は我先に殺到して来ました。「神はそれらの人間を排除」しました。そして「神の手」は、その方舟の入り口を締め切りました。

その雨の激しさはどれ程だったのでしょうか? 時間当たり雨量は、100ミリの何十倍、何百倍、いや何千倍だったかも知れません。豪雨は「40昼夜」続きました。野も山も水で満たされました。世界全部が洪水、地表の全てが水に浸かりました。生き残ったのは「ノア一家」と「あらゆる生き物のつがい」だけでした。これが旧約聖書の創世記に記されている「ノアの方舟」のあらましです。

キリスト教に於いては、ノアの方舟は単なる伝説ではなくて、歴史上の事実として語られています。ノアの方舟が漂着した場所は、現在はトルコに属していますが、「アララト山」だと言われています。アララト山、標高5137m、は古くからアルメニア民族のシンボル的存在だったのですが、オスマントルコの進駐によって国境線が改められトルコ側に帰属させられました。山麓のすぐ東側はアルメニアとの国境線となっていますが、アルメニア人は入ることが出来ません。

国境線の直近には「ホル・ヴィラップ修道院」がありまして、国境線越しにアララト山が展望できます。

ところで、「方舟の木片」だと言われている「物体」が現実に存在しまして、その木片はそこから更に東方約20Kmに位置する「エチミアジン大聖堂」に、金の十字架で飾られた入れ物に「宝物」として保存されています。 どうして「ホル・ヴィラップ修道院」ではなくて、「エチミアジン大聖堂」に置かれているのか? それは解りません。

もっとも、方舟が漂着し洪水が引いて、ノア一族が地上に降りられるまで1年くらいかかったそうですし、アララト山と言っても洪水の当時はこの山は存在しなかったらしいのです。だから、実際には方舟はアララト山に漂着したのではなかった、との事です。現在、「これが方舟の痕跡」だと言われている場所は、アララト山の山頂ではなくて、近くに村があるような場所です。

我が家のカミサンの話によると、神は将来『火』によって「再度人類を滅ぼす」と、聖書の中で予告しているとのことです。神が本当にいて、実際に人類は火によって滅ぼされるのか? 滅ぼされるのはいつなのか? それは「神のみぞ知る」の範疇でしょうね。

「神がノア一族を洪水から救った」のは、彼等が「勤勉で誠実、神の教えに忠実な生活」をしていた事。それが理由です。では、次に来るであろう『火』による「人類の絶滅」から救われる為には、同じように「誠実で勤勉、実直な生活」をしている事で、神からの「絶滅予告サイン」の受信が可能かも知れません?? 

そのサインには、「『方舟』を造れとのお告げではなく、『熱線シェルター』の製造命令が入っている」かも知れません。またそのサインには、「造り方とその大きさ」が示されると同時に、救われるべき人、すなわち「助命者名簿」が、「あなただけ」に「密かに」暗示されるかも知れません?? 

ところで、あなたは一族を率いて生き残ころうと努力しますか? 

ノアは「生き残る事を目的として努力したのではなく」、単純に「無欲」で「誠実」な生き方をしていただけのノア一族を見ていた「神」が、一族を救ったのだと思うのですが!?

「霊」の話

ラオスの話は「まとも過ぎて」少し飽きて来ましたので、今回はチョット「毛色の変わったテーマ」にしようと思います。 暑いから幽霊の話? でも、ちょっと違います。

私は、若い頃から、周りの人に「俺には、よくよく良い『背後霊』が付いているようだ」と言って来ました。何度も偶然とは思えない経験をして来たので、その様に言い放って来たのです。 と言っても「背後霊とは何者か?」なんて特別に考えた訳でもないし、実のところその存在を信じてはいないのです。 単に「俺はいつも運が良んだ」と言うよりは、「俺は、何度も背後霊に助けられているんだ」と言ったほうが、「解り易い」と思っただけなのです。

先日、ネットで「背後霊」を検索して見ました。日常的に、他の人はどちらかと言えば「守護霊」と言う言葉を良く使うので、「その二者に、違いが有るのか無いのか」、確かめてみたくなったからです。ネットの中には、どんな根拠で言っているのか解らないけれど、「背後霊」と「守護霊」は全く違うものだ、と書いてありました。「守護霊」とはどんな人にも生まれた時に取り付いて、「その人を一生守る霊」であり、その人と表裏一体の関係にある。「背後霊」は沢山の霊が取りつく人も在るけれど、霊が全く取り付かない人も在って、「霊の想い」と「人の想い」が一致している時だけに取り付く。と書いてありました。通常なら「背後霊」は取り付いた人を助ける働きをするけれど、時には背後霊が「低級霊・地縛霊・動物霊」といった霊に変化して、「人が持つ悪意に同調」して取り付く場合もある。と、書いてありました。最も、この説の根拠は曖昧だから、「信じるも信じないもその人次第」と言う事でしょう。私はどちらかと言えば「信じない派」かもしれません。でも重大な局面に立たされた時、「俺には、強い背後霊がついていて、味方になってくれている」と思えば、それなりに力付けられると思います。

ところで、私のカミサンはクリスチャンですから、「俺には『背後霊』と言う味方が付いている」と言うと、「あんたが運が良いのも、健やかに暮らせるのも、私がいつも神様に祈っているからだ」と言い張ります。「教会でも牧師さんや友達が皆であんたの安全を祈ってくれている」と言います。だから「あんたが思っている『背後霊』と言うのは、実は『神様』なのです」と言っています。そのように言われてみると、そんな気もして来るのですが、「でも、俺って神様を信じてはいないんだけれど!」と言って、皆さんをがっかりさせています。