貧しく見えても貧しくない。陰鬱に見えるけど意外と陽気。         不可思議な国、ラオス。     

 前回は「30年前に私が感じたマレーシア」の様子を記述しました。         今回は「場所と時間」をがらりと変えて、「3年前のラオス」に移動します。 マレーシアは赤道直下の「熱帯雨林気候」、「一年を通して非常に暑い」のですが夜間はやや涼しくなります。それと比較して、近年私が通う事になった「ラオスの北部地域」は、緯度的にはホンコンよりやや南で、「亜熱帯気候」です。 けれども、私が行っている地域(ウドムサイ県)は内陸(ラオスは内陸国、海の無い国)で、しかも山間部なので朝晩は寒いくらいです。何処に行っても「川」が流れていて涼しいです。昼と夜の寒暖の差が大きいので、何時も朝には「霧」が発生します。 

昨日の新聞に、「中国が主導してメコン川の開発が進んでいる」との記事が有りました。その中に、メコン川の「ダム建設計画」の事が掲載されていました。「ラオス」「タイ」「カンボジア」を流れるメコン川の主流部分に、ダムが建設されるのです。中国を流れるメコン川主流には、既に5箇所のダムが稼動中である、と記載されていました。そして、ラオスではウドムサイ県の「パクベン」に建設計画があるとの記事です。しかし、私が数ヶ月前に「パクベン」を訪れた時には既に工事は始まっていました(機会をみてその事も記述します)。更にその記事では、「サイニャブリではダム建設が始まっている」と言っていますが、3年前に訪れた時には、既に工事は終盤にさし掛かっていましたのでもう完成しているかもしれません。 今回は、ラオスの中で特に、「私が見たサイニャブリー県の様子」を記載したいと思います。

サイニャブリー県のサイニャブリでは、毎年2月の半ばに「象祭り」が開催されます。ラオス全土から象が何日もかけて集合し、盛大な祭りが繰り広げられます。祭りの前夜祭も盛大です。祭りを待ちかねた人々が広場に集まり、子供等はそこに作られた「移動遊園地」で楽しみ、若者達や大人達は、「沢山の夜店や様々なイベント」を楽しみます。                               早朝から、象の世話をする人、イベントに備えて象の訓練をする人、出店の準備をする人、関係者は大忙しです。 が、どの人の顔もウキウキとし、興奮に包まれていました。

ここは「県庁」?あるいは「ラオス政府関係の役所」? この役所の偉い人に会って来たのですが。 先方は全く英語が解らない、こちらは全くラオス語が解らない、ラオスは「言葉の不自由」をいつも感じる国です。           友人の通訳で会話をしましたが、その友人も私と同様で粗末な英語です。そんなで会話しているどうしの通訳ですから、相手との理解もイマイチ進まないのです。多分どちらも半分くらいしか解っていなかったと思います。

サイニャブリー市は県庁所在地、大学もある大きな街ですが、中心部は400メートル四方くらいしかなくて、周辺地域は「やはりここは、ラオスに違いない」と感じる風景になります。

中心からちょっと外れたマーケット、野菜や果物は豊富で、価格も安いです。  でも郊外に出れば風景は一変します。

怖い物知らずで何処までも突っ込んで行く、これが私の癖です。

でも、今まで「危険を感じた経験」は有りません。 こう見えても、意外と用心深いのだと思います。  次回はまたマレーシアに行きます。

 

 

 

郷に入らば郷に従え、何時も抱いている信条。 マレーシアが馴染みの地となる。

30年前、私が初めて降り立ったマレーシアの空港は、「スバン国際空港」です。クアラルンプール中心街から北西方向に約15Kmに位置する小さな空港でした。滑走路の向こう側には、赤く錆びたトタン屋根の格納庫が見えていました。それは軍用機の格納庫でした。その前には、あまり大きくない双発のプロペラ機が駐機していたと思いますが、記憶が定かではありません。                  空港を出ると、むせ返るような湿気を帯びた熱気、そして独特の匂いがする空気が立ち込めていました。空港の前には広場のような駐車場とバスの停留所があって、そこにいるどのタクシーの屋根も、どのバスの屋根も、そのペンキは黒ネズミ色や赤ネズミ色に変色し艶を無くしていました。熱帯の日差しと強烈な雨に晒されて来た為でしょうか? でもそれらの古ぼけた車は、強い日射の下で忙しそうに走り回っていました。 この光景が私の記憶に残っている、マレーシアで第一歩を踏み出した時の画像です。この異国の世界と自分との間に、どんな関係が生まれるのか? その時は全く分かりませんでした。残念ながら、その時の写真は行方不明です。どこかにあるはずですが、余りに大量の写真に紛れてしまっています。 最初の一歩以来、「自分はこのマレーシアで、木工に関連した事業の可能性を見出すのだ」と言う感覚は、私の意識から抜けた事は一度もありませんでした。当時は本業である「高圧ガス関連の事業」の先行きに不安があったのです。現に業界全体が不景気の中にありました。「早く何かの手を打たなければならない」と焦り、「どんな事でもする」と切実な使命感に駆られていました。

マレーシア国内で「見た風景」「見た物」、全てが珍しくて新鮮でした。

何度かマレーシアに通う内に、パハン州の「ラウブ」と言う町が私にとっての拠点となりました。 そこの「レストハウス」と言う(日本で言えば国民宿舎)宿が常宿になりました。当時は一部屋、一泊素泊まりで ¥800 でした。しかし、時々停電がありましたし、電気の貯湯式シャワーは時々故障で水しか出ない時もあったし、壁にはヤモリが沢山這ったりしていました。便所兼シャワー室には大きめの水槽が置いてあって、水を貯めて手桶で体を流すのが普通でした。入っているのは、桶の底が見えない程に濁った水でした。建物はイギリスの統治時代に作られた古い木造です。 これらの話は今から30年前の事です。 現在は建物本体はそのままですが、外装も内装も設備も改修されていまして、予約しなければ泊まれないらしいです。現在の価格は ¥6,000 前後に上がったらしいです。

レストハウスのすぐ下がバスセンターで、タクシーやバスはここから乗れました。こんな形で滞在している間に、ラウブの町に知り合いが結構出来ました。 町中を散歩している時に、声を掛けてくれるような友人も出来ました。

この写真の真ん中の人はとても親切でした。ある日、町中を歩いていたらこの人がバイクで通りかかりました。ちょっと話をした後しばらくすると、この人がヘルメットを持ってまた現れました。ヘルメットを被ってバイクの後ろに乗るように言われました。ラウブの町を案内してくれると言うのです。相乗りで2、3時間走ったと思います。今ではその縁も切れてしまいましたが、30年間忘れられない思い出となりました。 製材所廻りと同時に、木工所廻りも随分しました。

木工所を見学する度に、こんな機械設備をする事が自分にも出来るだろうか?  羨ましいと同時に先行きの「資本投下」が恐ろしくなりました。しかしそれ以前に、自分はこう言う設備で何を作れば良いのだ? そちらの方が大問題でした。

マレー半島の東部を北方に行くと「コタバル」、タイとの国境になります。国境は小さな橋で結ばれています。国境を越えるには、パスポート見せそこにスタンプが押されるだけです。こんな小さな川だから、簡単に渡れます。現に橋の下では小さなボートが行き来していました。だから「国境破り」は日常茶飯事でしょう。しかし、マレーシアの男衆にとっては、このスタンプが重要だったらしいです。 国境の北側、タイの入り口の街には沢山の「マッサージ屋」さんがあって、「マッサージの料金」はマレーシア側の半分以下だそうでした。この事は「公然の秘密」でして、マレーシアの男衆は時々通ったらしいです。だから男衆は、「パスポートは絶対に奥さんには見せない!」と言っていました。

でも私の頭は木工事業の事で目一杯、とてもそんな余裕はありませんでした。

ナンマイダブ、ナンマイダブ、ナンマイダブ。

 

 

 

 

ラオスへの最初の一歩を踏み出す。   タイ国境の町からラオス、ファイサーイへ陸路で入国。

今回は「マレーシア」からいきなり「ラオス」へ飛んでみたいと思います。      このブログ、前回はマレーシアでの「木工事業の話」がスタートした話でした。その直後なのですが、この時点であえて私は,「ラオスに始めて行った頃の話」をしようと思います。 何故ならば、「マレーシアでの木工事業の苦労話」と「ラオスでのハーブ事業の苦労話」を平行して進めれば、両者の「目的の違い」がはっきりして、私の言いたい事が解り易くなるのでは?と、思えるからです。

マレーシアの話のスタートは「約30年前」、ラオスの話のスタートは「足掛け4年前」ですから、両者の間には約25年(四半世紀)の時間ズレ(タイムラグ)があります。この「二つの時代」と「二つの国」を同時にまたいで、「行きつ戻りつ」しようと思いますので、混乱が生じるかもしれません。でもここに記述している内容は、「個人の偏見と独断レベルの話」ですから少々の事は大目に見てください。

 あらゆる「人間」の、「四十代を生きている時代」と「七十代を生きている時代」とでは、「体力」「活力」「気力」「価値観」等々の点で大きく異なります。また、あらゆる「国家」は、「30年間と言う時代の経過」によって、「国情を激変させられる」はずです。

 私が、これから行おうとしている作業は、この凄まじい強さで転換させられた「二つの要素」を、平行して眺めつつ、「比較しようとする試み」です。

国境の街、タイ、チェンコン付近の寺院です。「タイの北東部」と「ラオスの北西部」はメコン川を国境として並存していますが、ラオス側の「ラオ族」とタイ側の「タイ族」は同じ民族で、ラオ族はタイ族の一部に入るらしいです(ラオスには十以上の少数民族が居住している)。ですから、タイ語とラオス語は非常に似ていて方言の違い程度しかないらしいです。タイの「チェンコン」とラオスの「ファイサーイ」はメコン川に架かる友好橋によって結ばれています。友好橋を渡っての国境越えは「特別のバス」に乗り換えなければなりません。

タイ側では出国手続き、バスで橋を渡り、ラオス側で入国手続きをします。

30年前、私が最初にマレーシアに行った時はマレーシアの友人に案内をして貰いました。ラオスに入国した4年前は、タイに居住していた友人と一緒でした。

ラオスへ入った時の印象は、「静かで、人が少ない」でした。タイでは人々の動きが活発で、「油断できない」と感じていたのですが、ラオスは安心感をもてました。30年前のマレーシアのクアラルンプールも、人の動きは忙しそうでした。人々は大らかそうでしたし、全く危険を感じませんでした。       ラオスの人達は、スローモーションビデオのようにゆったり動く感じですが、「のんびりしている」ようには見えませんでした。私の眼に映るラオスの人々は「もの憂げで、必死で生きている」そんな姿でした。

 現在のマレーシアは最早先進国ですが、30年前は車も建物も古めかしくて、日本から見たら「相当遅れている感じ」でした。それなのに、人々は活発に動き回っているように見えました。恐らくマレーシアは赤道直下、暑さが陽気にさせていたのでしょうか?                 

最初のマレーシアで印象に残ったのは、「物価が安い」事でした。日本円はマレーシアでは「日本で使う数倍の価値」があるように感じました。自分が金持ちになった気分になったものです。 

 ところが、ラオスでは全く事情が違いました。事前に調べた結果では、ラオス人の平均収入は日本人の収入の  20分の1 ~ 30分の1 程度でした。だから、物価は「もの凄く安い」だろうと考えていました。ところが「店で売っている商品の値段」は日本より「多少安い程度」だったのです。恐らく「現在のマレーシア」よりもかなり高いのではないでしょうか?  だから、「30年前のマレーシア」と比較したら、「現在のラオス」のほうが「10倍以上物価が高い」のではないでしょうか?

私がラオスに行きたかった第一の理由は、「ラオスは貧しい国」だと思っていたからです。ところが、物価は「現在のタイ」よりも「現在のマレーシア」よりも高いのですから、「貧しそうな国」には見えませんでした。           それが国境の入管から離れるに従って、貧しさを感じさせる風景に段々と変化してゆきました。

収入が日本の20分の1なのに、物価は日本より少し安い程度、「ラオスってどうなってるんだ?」、私は混乱してきました。

考えた末に解った答えの一つは、この町「ファイサーイ」はラオスでも非常に豊かな地域ではないか?という事でした。豊かさをもたらしたのは「大きな観光収入」ではないか?という事です。もう一つの理由は、貧富の差が非常に大きいと言う事です。「平均の収入は非常に低く」ても、中には相当高収入の人がいるのです。金持ちなら、この高い商品を平気で買う事が出来るはずです。

 最初の一歩踏み入れたこの時点では、自分がラオスに深く関わり、事業をする事になるとは想像もしていませんでした。私がラオスに行った理由のひとつは、「貧しい人達の為に、自分が少しくらい役に立てるかも知れない?」そう思っていただけなのですから。そして、それが「ハーブティーの事業」になるとは夢にも思ってませんでした。 だって、私はラオスに良質のハーブがある事すら知らなかったのです。 それに対して、マレーシアに行った時は、最初から「マレーシアの木材」を意識し、「何とか木工に関連した事業が出来ないものか?」と考えていたのです。

 

 

 

 

当時、私は未熟者で、怖いもの知らずでした。   時間を約30年前のマレーシアに巻き戻します。

 今回はカスピ海からグルジアに行く予定をしていました。           でも友人から、そもそもどうして、アジア・ウッド・ジャパンは「マレーシアでの木工事業から、ラオスのハーブティー事業に行ったのか?その説明が必要だ!」、と言う指摘を受けました。 そこでしばらくの間、時間を頂きましてマレーシアに通い始めた頃の様子を書きます。

 木工事業の会社、「アジア・ウッド・ジャパン」の正式な設立は1991年8月です。正確には「91-8-16」です。私は、敢えてこの日を会社設立の日にしました。この日、91-8-16 は特別な日でして、上下にひっくり返しても同じ日付になるのです。このような日付は「100年間」でも数日しかありません。 つまりひっくり返らない日付、倒産しない日付、という事でこの日と決めました。マレーシアに最初に行ったのは会社設立より二年程前のことです。

当時、マレーシアの田舎では日本人は珍しくて、子供達は興味津々で私を見ていました。村はずれで、一緒に写真撮る?呼びかけに大勢の子供が出てきました。

私は、子供達に「日本式のジャンケン」を教えたり、数字の数え方を教えたりして遊びました。所が、その場所は警察官住宅が並んでいた場所だったのです。      こちらはそんな事を全く知らず、ただ子供達と遊びたかっただけなのに、「不審な人物がいる」と思われて警察官が二人出て来たのです。身振り手振りで怪しい者ではないと説明し、やっと無罪放免となった事を思い出しました。

マレーシアの友人の友人が材木の伐採業をしていて、熱帯雨林の山に連れて行ってくれました(正確には原生林では無いので、ジャングルとは言えない)。

彼らはマレーシアの少数山岳民族「サカイ族」の人達です。彼らも若いけれど私も四十そこそこ!若いが故に、怖い物知らず、向こう見ず、「未熟者」でした。

マレーシアで「木工事業」をやりたい、それだけの情熱で行ったのは良いのですが、「木材を使って何をやれば良いのか?」、皆目見当が付きませんでした。              ともかく木材の原産地を見たい、と友人に頼んで「製材所廻り」をしました。 主にマレー半島の北東部の村々(時には山中)にある製材所を尋ね歩きました。    十箇所以上は行ったと思います。

こうして、一、二年が経過しました。そして行き着いたのが、「南洋材を使って、屋外家具(ベンチや椅子や遊具)を作る事業をやる」、だったのです。     まずは私自身が「デザインと設計をした図面」を基に、それを加工してくれる会社を探す事から始めました。しかし、「コンテナ単位の仕事ならするが、少量の生産はしない」、そんな会社ばかりでした。それならば、先方の会社が「企画、デザイン、製造をした製品」の中で、「自分の抱くイメージと一致する商品」を探し出し、それを日本に輸入しようと考えました。 そして、とうとう良い商品を見つけました。それをコンテナ(一杯分の木工家具)で輸入しました。   でも、それは全然売れませんでした。と言うより、商品は良いはずなのに、「売り方が解らなかった」のです。結果として25年も経過した今でも、我が社の倉庫に眠っています。やはり「大量の商品」は手に負えない、「少量の手作り製品でなければ駄目」だ、との結論に至りました。その為には「製品の企画とデザイン、設計」を「自分の手」でしなければならない、と考えました。                           それには、まず材料となる樹種を決めなくてはならない。 生産用の木工機械を揃えなければならない。 宣伝はどうする? 販売方法はどうする? 販路の獲得は大丈夫か? 難問が山積しました。                  ちょっと考えただけで、「ハードルは100以上」有りました。       私は、このハードルを一つ一つ乗り越える決心をしたのです。 その中で最大の関門は「工場」でした。工場はマレーシア国内に作らなければならないのです。  現地の社員はどうする? 工場の管理は大丈夫か? 工場用地はどうする? 工場の建屋はどうする? 機械の配置は? 怪我への対応、保険は? 現地法人は? 輸出入の作業は? 水は? 電気は? クレームへの対処は?  材料と製品の運搬は? 住まいは何処にする? 計画の日程管理、工程管理は? 人事管理は? 経理は? 資金繰りは?  もう頭の中は「満タン状態」でした。

このようにして、「私の木工事業」、「苦難の道」が始まりました。      が、それは今度の機会に書く事にします。

 

春ウラウラ、人々ウキウキ、太陽ピカピカ、水面キラキラ、  外国語ではこんな表現出来ないですよね。 

日常目にする周囲状況を、「繰り返し音の形」で表す言葉の事を、「擬態語」と言うらしいですね。「日本語」だけが持つ優れた特徴だと思います。ガヤガヤ、ワサワサ、ドヤドヤ、ギュウギュウ、 このニュアンスが解る外国人は少ないでしょう。このような言葉を「日常的」にしかも流暢に使って、互いに同じ情景を想像出来るのですから、日本語は素晴らしい「言語」だと思います。外国語にも「擬音語」はあるかもしれませんが、日本語のように豊富では無いと思います。         それじゃ、ボチボチ話を進めて見ましょうか。

麗らかな春の陽光の下で、私はクシャミが止まらず、鼻も詰まってしまったので、「吐息式呼吸法」を試みました。でもたった40秒間しか継続出来なくて、「口呼吸」に切り替えました。この日、私は春の公園を散策していたのです。     日本人て本当に「桜が好き民族」なんだ、と実感しました。公園への道すがら、街の中には至る所に桜が植えられていて、何処も彼処も満開でした。     公園の桜も負けじと満開でした

集まった人々は顔を緩め、大らかな気分で桜を眺めていました。 

でも、花より団子が良いのは世の常でしょうか?

キャアキャア走り回る子供たちを尻目に、 いいんだ! ボクチャンは一人でいるのが、好きだもん。

何を勘違いしたのか?  記念写真を撮ってたら、「邪魔になっちゃだめよ!」と、一人の子が言う。 と、もう一人の子が、「ネエおばちゃん! おばちゃんてモデル?」 こちらは思わず噴出しそうになりながら、「違うよ!だだのおばちゃんだよ!」と答える。 「おばあちゃん」と、言わなかったのは見栄を張った証拠。

「それじゃねえ!」「おねえちゃんたち、モデルになってよ!」。        二人の子は恥ずかしそうにカメラの前に立って、Vサイン。 「可愛いね!」

桜ばかり見ていたら、眼が違う色を欲しがって来ました。

たまには、ひがな一日をのんびり過ごすのも良いものでした。

 

 

 

 

 

春、百花が花粉を伴ってやって来ました。     美しい風景の中で、苦しい日々を送っています。

花粉にやられました。そこで、一週間書き込みを停止しました。          その間、我が家の庭でも、周辺の樹々でも、春は足踏みをしていませんでした。

私は三十数年来の花粉症です。かなり重症でした。数年前まで、この季節に屋外に出る事を極端に嫌っていました。だから春はただ苦しいだけの季節でした。 花見に行く時も厚いマスク姿でした。そこで、なるだけ息は吸わないように、出来れば、息は吐くだけにする呼吸の修行を日々行って来まして、ついに空気を吸わない呼吸法、「吐息気式呼吸法」を編み出しました。と言うのは嘘です。  が、長年の苦労が結実して、ついに花粉症を克服したと思いきや、今年は例年になく大変です。でも薬を飲めば屋外にマスク無しで出られるレベルまで改善しましたから、まずは我が家周辺の写真を載せようと、近辺を歩き回りました。

私は条件の悪い状況下で写真を撮る事が好きでして、今年の桜の写真撮影は、夕暮れ近い時間帯を選びました。  「どんよりと淀んだ空気感」、「薄い赤味の掛かった紺色の世界」、そのような雰囲気の写真を撮りたいのですが、さすがは人間の眼は優秀でして、私のカメラの眼ではどうしてもそれが写りません。      何百枚も撮っているのに満足出来る写真が出来ないのです。プロのカメラマンはそれを写すのですから、凄いと思います。

 

アゼルバイジャン   「カスピ海クルーズ」      普通の人々は休日をどう過ごすの?

一介の旅行者に、現地の人々が日常どんな生活をしているのかなど、解るはずもありません。そうではありますが、それでも私は、その国の日常生活を知りたくて旅行をするのです。 今回は、一庶民である「私自身の庶民的目線」が見た、アゼルバイジャンの人々の日常生活、特に「休日を楽しむ様子の断片」を紹介する事を試みます。

私の想像では、この写真に登場している人々は普通の人々(中流レベルの人々)かと思います。「カスピ海クルーズ」は庶民の楽しみの一つだと思います。  クルーズと言っも観光船でバクーの沿岸を短時間巡るだけですが。

バクー沿岸の景色は風光明媚とは言えませんが、ここが「カスピ海である事」それが重要です。  船上では、みんなが開放感に浸っていました。

子供達も楽しそう。  ねえ知ってる? カスピ海ってね、地球上に二つしかない海の一つなんだよ!  でも、2番目の大きさなんだって!

バクーの桟橋の前は公園です。人々はのんびりと散策しています。  ここには特別な物は無いけれど、穏やかな空間があるよ! 一緒にお散歩をしましょう!

わたし馬車に乗りたいの! でももう帰る時間だよ、この次にしよう。

 

 

 

 

 

アゼルバイジャン  「カスピ海」           世界最大の湖か? 地球上で二つ目の海か?

前回、次回はグルジア(ジョージア)に行くと予告しましたが、「大きな物」を忘れていました。それは、日本国の面積には少し及ばないもののほぼ同じ面積を誇る世界最大の湖??「カスピ海」です。だから今回もアゼルバイジャンに留まります。

ところで何十年も前から、カスピ海の周辺国(アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタン、ロシア)ではこの広大な水面が、「海」なのか「湖」なのかで激しい議論を繰り広げています。カスピ海に接してない国である日本から見たら、そんな事は「言葉の違い」だけで「どっちだっていい!」と思いますが、そうは行かない「重要な問題」があるらしいです。それは経済上の争いなのです。国際法上「海」と「湖」では全く扱いが違うらしいです。もし「海」だとしたならば、「排他的経済水域の考え方」が分割の基本的条件となるらしいです。ところが「湖」だとしたならば「海洋法」が適用されないので、習慣的にカスピ海は沿岸国で均等に分割すべき、と言う事になるらしいのです。 この「言葉」の影響が最も強く及ぶ国は「イラン」です。イランにとって、「湖」とするのと「海」とするのでは、権利の及ぶ範囲が2倍くらい違うらしいのです。 だから、イランは「カスピ海」は「湖」である、と言い張っているらしいです。何しろカスピ海には、巨大な埋蔵量が予測されている海底油田が散らばっているのですから! 各国は国の利害を賭けて、「海だ!」とか、「湖だ!」とか、激しく議論をしているらしいです。未だにこの問題は解決をみないまま、睨みあいが続いているとのことです。

ところで、「カスピ海」の水は「塩水」です。塩分濃度は1%ちょっと位で、いわゆる「海洋」の塩分濃度の三分の一程度です。ただし「カスピ海の標高」は、マイナス約28m、つまり海面下ですので「死海」と同じように、「カスピ海の水」は外洋には流れ出る事が出来ません。ここに流れ込む河川は約130もありますが、北部のロシア側からの水量は南部イラン側からの水量よりも遥かに多いので、北部カスピ海の塩分濃度は、南部のそれよりもかなり低いそうです。個人的な想像ですが、カスピ海には「海流」が殆ど無いはずですから、水が余り混じり合わないので、その為、塩分濃度のばらつきが大きいのだと思います、(北部の水深は浅くて10m程度しかないのに、南部の水深は900m以上もあるので、南部では水深によっても塩分濃度はかなり違うかも知れません)。    何しろカスピ海、南北の長さは日本の本州の長さよりも少し短いけれど約1000Km近くもあるのですよ。

「世界の海」は場所によって太平洋とか大西洋とか名前は変りますが、海水は全部繋がっているので結局は一つだともいえます。そのように考えれば、海洋から切り離されているカスピ海は「地球上にある二つ目の海」と言う事になります。

バクーはカスピ海沿岸で最大の都市です。市街地は美しく整備されています。

夜のバクーも美しいです。

夜明けも美しいカスピ海。

 

アゼルバイジャン 「バクー」  <二の巻>   古い時代のバクーは実在していた。

今回もバクーをとり上げます。このブログは主としてアジアの国々について記述しようと始めましたが、世界を眺めながらアジアも眺めたほうが楽しそうです。私は見聞が広いわけでは無いですが、学者や評論家の目線ではなく、庶民の立場です。世界を「庶民目線で見る事」も大切かと考えています。

私が最初に見たバクー市街は、まるで「大金持ちだけが住んでいると錯覚」しそうな様相でした。おまけにアルバイトガイド、大学教授の横柄な態度に接したもので、「バクー」とはこの様な姿なのかと思ったのですが、後からそれが大きな誤解だった事が分ったのです。

「バクー油田」は第二次世界大戦が終った頃は世界最大の産油量を誇っていたのですが、次第に「ペルシャ湾岸」の油田開発が進むに従ってその地位は落ちて行ったようです。それまでソ連はこの油田地帯は国家の最重要地域でして、絶対に他国に侵されてはならない油田(大戦中はドイツに狙われた)だったようです。しかし、1950年頃になると、原油の「枯渇」が懸念され始めて、次第に衰退して行きました。

枯渇が推測されるような油田に拘るのは得策ではない、と考えるのは自然の成り行きなのでしょうか? ソ連はこの油田を見限ろう(なるだけ良い条件で権利を手放す)と模索したのでしょうか? そこに目を付けたのが西欧の巨大石油資本家でした。石油の「探査技術」と「掘削技術」(海底油田の開発技術)を格段に進歩させていた西欧の巨大石油資本は、争ってこの地域に乗り込んで来たとのことです。そしてカスピ海のバクー油田は再度埋蔵量世界一の地位を獲得したのでした。

巨大資本の海底油田の開発意欲は凄まじく、大挙して開発に乗り出しました。石油掘削用リグは「人工地盤」に、そして資材を運搬する通路は「道路」に変えられ、ついには、住居、商店街、学校、病院、が「連結されたリグの上」に建設され「海上都市」が形成されるに至ったのです。 残念ながら私には海上都市の写真は撮れないので、ネット上の写真を転載させてもらいました。

私が最初に見たバクーの市街地は、新たに参入した巨大資本によって作られた都市だったようです。

しかし、古い陸上の油田は現在も油を産出しています。私が想像していた情景は、正しく実在していたのです。

油田開発から見放されて来たバクーの人々は、昔ながらの生活を営んでいます。

殺風景な写真が続きましたので、最後に少し楽しい写真を掲載します。

アゼルバイジャンの隣の国はグルジア(現在はジョージア)です。この国のベリーダンスです。 このダンサー、美人ですけれどベリーダンスよりも、ストリップショーで踊った方が似合っていると思いませんか? 次回はグルジアに行きましょう。

アゼルバイジャン 「バクー」  <一の巻>    超大金持ちが住む街

今回は長文になってしまいます。悪しからずお付き合い下さい!

カスピ海の西岸に位置するアゼルバイジャン、その首都がバクーです。     バクーは原油を産出している世界でも有数の地域です。

私が中学生の頃「バクーは、世界で一番石油を沢山産出している油田です。」 そんな文章が社会科の教科書に書いてありました。当時、何も知らない私はまず[バクー]の発音が、「犬が人に噛みつく様」を連想して「音」として可笑しかったのですぐに地名を覚えました。当時はペルシャ湾岸諸国の油田はまだ開発途上であって、バクー油田が世界の産出量の半分くらいを占めていたのです。それから[カスピ]と言う地名にも「不思議な響き」を感じていました。そのせいでしょう、私は社会科が非常に苦手科目だったけれど、「バクー油田」の事だけは直ぐさま「ちゃんと覚えた」のです。そして、いつかは「カスピ海」と「バクー油田」をこの目で見てみたい、と思うようになっていました。そして大人になって、「カスピ海の上空」を飛ぶ機会を得たのです。

最初にカスピ海を「西方から東方へ」通過したのは、太陽が夕日となって地平線に隠れそうになっていた時刻でした。眼下に黒味がかたった「群青色のカスピ海」が見えた時の印象は脳裏に鮮明に残りました。カスピ海の西岸にあるはずの「バクー」を必死で探したけれど見つけられませんでした。写真の左側が西です。その時は、バクーが小さな街である事は知っていたけれど、「原油を汲み出す井戸から出るガス」を燃やす大きな炎が見えるに違いない、と考えていたのです。でも良く考えてみれば、例え「炎」が燃え上がっていたとしても、一万メートルもの上空から炎が見えるはずは無かったのです。それに、その炎だって燃えているという保証は全く無かったのです。バカな考えを持ったものです。それから、その次にカスピ海の上空を通過する機会を得たのは、「東方から西方へ」向かった時でした。でもその通過時刻は真夜中だったから、眼下は真っ暗で海面すら見えませんでした。その時私は、点のような小さな明かりさえも見落とすまいと探したけれど、結局見えませんでした。それからも、何としてもカスピ海をはっきりと見たい。と、そんな願望を持ち続けました。           そして、ついにその願望は現実のものとなりました。

この足で「憧れのバクー」に降り立ち、空想の場所であった油田地帯を確認できる機会となるはずでした。

しかし、実際のバクーはそれまで抱いていたイメージとは「全く別物」でした。      それまでバクーは、原油をくみ上げる為の鉄塔のような「井戸のやぐら」が大地に林立していて、所々に「やぐら」から吹き上がる炎が見える(湾岸戦争終了の間際、クエートの油田が燃えていたニュースが刷り込まれていた)、そんな情景をイメージしていたのです。そこは片田舎で寂しくて殺風景な場所に違いない、と思っていたのです。  ところが! ところが! です。

この写真が、現実のバクーでした。近代的な高層ビルが建ち並び、未来都市を象徴するようなデザインのスタジアムやビル群が広がっていたのです。     その上、これまで自分が持っていた「バクーへの思い」が破壊される出来事が発生したのです。

皆さんにはこの写真の建物が何だか解りますか?  実は私にも解らないのです。 この写真のシャッターを切った直後、突然、私のカメラのレンズが何者かの手で塞がれたのです。最初、何が起こったのか解りませんでした。原因は、我々の「現地ツワーガイド」が私の撮影を妨害したのです。こちらにしてみれば、普通の街中を普通に歩いていて、ちょっと変わった建物があったから撮った。それだけの事なのです。それを、何の説明もなしに突然妨害して来たのです。しかも、妨害したのはツワー会社が雇った「現地ガイド」なのです。こちらはガイドのやり方に腹が立ったので、ガイドに文句を言いました。そのガイドは平然と、「国旗の出ている建物は撮るな!」と言うのです。こちらは、「そんな事は最初から言って置くべきだ! それにこの建物の何処に国旗があると言うのだ!」と言い返したのです。けれど、ガイドはそっぽを向いて平然としてたのです。そのガイドは中高年の、「大柄で太った女」でした。後で添乗員に聞いたところ、このガイドは大学の教授をしているのだけれど、教授の仕事だけでは生活が成り立たないのでアルバイトでガイドをしていると、そんな事でした。   もう、この事があった後は、自分があれほど思い入れをしていた「バクー油田」に興ざめしてしまいました。こうなると、坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなって、見る物全てに反感を持ったのです。

この写真の建物は公共の建築物ではないのですよ、個人の住宅なのです。私はこの家を見て、素直に「凄い家だね。良いね!」とは思わなくなっていました。    逆に「石油成金め、こんなに「でかい家」を建てて、どうするつもりなんだ!」と、もう反感だけが先に立ちました。  私のある友人がよく言っていました。「その国に好印象を持つか反感を持つかは、その国で最初に出会った相手によって決まってしまう!」とね、本当にその通りの事が起こったのです。

でもその後で、「別の現地ガイド」となったので、印象もがらりと変わりました。 その事は、この次の回に記述します。