「ラオス」と「ハーブ」について

私が昔から「先輩諸氏」から受けてきましたアドバイスは、商品を販売する上で一番大切な事、それは、まず「品物を売ろうとする人間は、自分を買ってもらう事を考えなければならない」、そして「売り手となる自分を信頼してもらう事が一番大切だ」、という事でした。私は、全くその通りだと思いまして、これまでその助言に従ってやって来たつもりです。このブログも、まず自分の事を皆さんに知っていただこうと考えまして、スタートしたものです。

よく受ける質問は、何で「ラオス」なのか? 何で「ハーブ」なのか? というものです。私が日常的に親しくして貰っています、友人や知人達は、この点に強く疑問を感じるらしいです。

世界は十分に広いですから、「ラオスである必然性を考えにくい」し、何処の国にもその国独自の商品がありますので、何も「ハーブ(薬草)である必然性も無い」はずです。どんな国ににだってその国だけの特別な産物があります。海外事業を行うだけなら、何処の国が相手であっても良いはずだし、扱う商品は何であっても良いはずなのです。

でも、私が決めたのは、「ラオスのハーブ」なのです。それは、私が「どんな小さな縁だって大事にしなければならない」と思っている事に端を発しています。  

私は十年以上も前から、「ラオス」と言う国に関心を抱いて来ました。そのきっかけとなったのは、テレビの映像でした。十数年前の事、テレビでラオスの取材番組を見ました。そこには「ラオスの人々の素朴な生活」が映し出されていました。それを見たとき、この国は何て貧しいんだ、と思いました。でも人々は凄く穏やかで誠実そうな顔をしている、と感じました。その時の印象が頭の中に残り続けました。事業の第一線から退いた時、どうしてもラオスに行こうと考えまして出向きました。

その時は、まず学校に行こうと思いました。貧しいが故に学校では音楽教育が出来ていないだろうと考えた末、ラオスの山中の学校にハーモニカを普及させようと思って、たった2本でしたが寄付をしようと思って持って行きました。  運よく、山中の小学校へ行くチャンスを得て、訪問を果たしました。トクトクで行ったのですが、学校への途上、ボロボロの学校が有りました。でも、そこはもう使われていない校舎だと考えました。案内して貰った学校はその地域で一番良い学校だったようです。

私も粗末な英語しか出来ませんが、殆どの若い先生は英語が全くが出来ませんでした。少しだけ英語の出来る先生が一人いて、何とか「ハーモニカを上げます」、「ちょっと吹いてみてください」とやっと伝える事が出来ました。   子ども達は興味津々で大勢集まってきましたし、他の先生達も「変な日本人」が来たものだと周りを囲みました。その時は時間がなくて、小一時間ハーモニカの吹き方を教えようと試みました。でも、上手く行きませんでした。そして、一番簡単な日本の唱歌の楽譜(数字譜なので、数字の場所を吹け良い)を置いて帰ってきました。後で分ったのですが、途中で見たボロボロの学校は現在でも使われていたのです。

山中の学校では、音楽教育は全く出来ていない。私は、「思った通りだ」と感じました。でもそれは「大間違い」でした。実際には、音楽どころか教材もままならなかったのです。

縁があったと言うのでしょうか?その日に一人のラオスの人と知り合う事が出来ました。

つぎにラオスに行った時は、ハーモニカを10本持って行きました。今度は前回に縁の出来た彼氏が「ラオス山中のもっと貧しい場所」を案内してくれました。貧しい事は解っていたけれど、想像以上でした。カルチャーショックを受けました。その学校の先生に日本から持参したハーモニカを贈りました。

子ども達には「飴」をあげました。その学校は電気が来ていませんでしたし、ハーモニカなんて見た事が無いようでした。学校では時間がなかったので、ラオスの彼氏がその先生の家に「夜」連れて行ってくれました。先生の家は学校から歩いて1時間ほどのビレッジにありました。先生はバイクで通勤らしいです。家には電気も来ていました。そこで先生にハーモニカの吹き方を教えようとしました。しかし全く駄目でした。「ド、レ、ミ、ファ」が解らないのです。彼の学校は生徒が30人位で、先生は一人です。その先生がドレミファを知らなかったのです。開け放しの玄関ですから、先生の家の近所の人が、「変な日本人」を見に来たので、数人でドレミファを練習しようとしました。余り長居も出来ないので1時間ほど練習しましたが、どうしても「ドレミファ」までで、「ソラシド」、まで行きませんでした。

翌日、ラオスの彼がもっと山中、奥の方にある学校に連れて行ってくれました。ウドムサイ県には、山間部を援助する政府の出先機関が有りました。その組織が山間部の集落に「フランス」から届いた援助物資を届ける為に出向くと言うので、その車に便乗させてもらったのです。何しろ道路が悪くて4WD車でないと行けないのです。凄い道でした。石がゴロゴロ、水溜りはある、路肩は悪い。不謹慎かも知れないけれど、私はその様な「荒れている場所」が大好きなので、ワクワクしていました。

尾根に沿った山中の道を3、4時間走ったでしょうか?でも走行距離は数十キロしか無いと思われます。その間に学校が数校あったと思います。その内の5校か6校を訪問したと思います。どの学校も生徒数は100名前後です。先生は多くて3、4人、少ない所は2名くらいです。その学校に、突然変な日本人が訪ねて行ったですから、先生も戸惑っていましたが、それは一時の事で、20歳を過ぎたばかりの先生は丁寧に対応してくれました。勿論英語は全く解らないので、会話は出来ません。友人となったラオスの彼氏が、ラオス語の通訳をしてくれました。相変わらず「土産」は日本から持って行った「僅かばかりの飴」でした。ハーモニカは重いのでそんなには持って行けません。最も持って行ったところで何の役にも立たない事が解りました。 必要なものは、「ノート」と「鉛筆」だったのです。ところで、こんな山中でも「貧富」の差がありまして、ある子供は靴を履いてノートも鉛筆も持っているのに、ある子供は裸足でノートも鉛筆も持っていないのです。

夜も昼間も、「ラオスの彼氏」と沢山話をしました。「どうすれば貧しい子どもを支援出来るか」です。ラオスの北部地域は、山また山で、農地も十分ではありません。電気も道路も不十分、インフラがまるでなっていません。何から何まで「無い無いずくし」です。一体どうすれば良いのでしょうか? ため息が出てしまいました。つまり、ハーモニカどころの騒ぎではなかったのです。

私は自分の考えが、余りにも甘かった事に気がつきました。ラオスについての知識の浅さ、人々の生活についての理解も非常に不正確だった事、徐々に判明して来ました。

このブログ余りに長くなったので、「今回はこの辺で、よかろうかい!」