太古から、二度以上の人生を送った人はいないでしょう。いるはずは有りません。 「そんな当たり前で馬鹿げた事は言わないでよ!」と思うのは当然ですが、私はその馬鹿げた事に挑戦をしています。勿論、物理的に二度生きようと言うのでは有りません。
以前、私は「終活」はしないと宣言しましたが、「終活」って「一度目の人生を、途中でトーンダウンしてしまう事」、つまり「一度目の人生を短くしてしまう事」だとも思っています。
どうやって「二度目の人生」を生み出すのか? それは、「一種の妄想」とも言えますが、「想念の世界を、新規に、意識の中に創り上げる」のです。 難しく書きましたが、簡単に言えば「頭の中だけの架空の世界」を、「実際に体験しつつある世界」として感じ取るのです。
私は若い頃から「実体験と疑似体験の区別が曖昧になる時」が何度も有りました。 「疑似体験」とは、「夢で見た事」「映画やテレビで見た事柄」「ニュースで知った事」「人から聞いた話」「本や雑誌で読んだ物語」「写真集で見た世界」などの、自分が「実際には体験してはいない事を、臨場感を感じつつ体得する事」を言います。その「疑似体験」と「自分の実体験」とが混ざってしまって、その境目がわからなくなってしまうのです。
とすれば、「自分の記憶」に「疑似体験」を混ぜ、それに関連した「証拠」になるような「物」なり「写真」なりがあれば、それは「実体験した事と同じ結果になる」のでは?と思います。 小説の主人公に「徹底してなり切る」のです。
小説「マディソン郡の橋」の中で、主人公「フランチェスカ」は年老いてから、毎年一回、一日だけの儀式(その日は化粧をし着飾って、何十年も昔の、ロバートとのたった四日間の思い出に浸る事)を繰り返して、「自分が生きて来た証し」としました。「マディソン郡の橋」の事は、4月18日に掲載しました。
この話は小説に過ぎませんが、フランチェスカと似たような行動、言い換えれば、「自分の生きてきた証拠を再度確認する行為」をきちんと行えば、その作業をしている間は「あたかもその時代を、もう一度生きているかように感じ取れる」、と思うのです。
最近、私は「かなり長い時間」を使って、「過去の出来事を整理しつつ、再度の確認」を行っています。すると不思議な事に、あたかも二回目の人生を送っているように感じる事が、出来るのです。