今回はカスピ海からグルジアに行く予定をしていました。 でも友人から、そもそもどうして、アジア・ウッド・ジャパンは「マレーシアでの木工事業から、ラオスのハーブティー事業に行ったのか?その説明が必要だ!」、と言う指摘を受けました。 そこでしばらくの間、時間を頂きましてマレーシアに通い始めた頃の様子を書きます。
木工事業の会社、「アジア・ウッド・ジャパン」の正式な設立は1991年8月です。正確には「91-8-16」です。私は、敢えてこの日を会社設立の日にしました。この日、91-8-16 は特別な日でして、上下にひっくり返しても同じ日付になるのです。このような日付は「100年間」でも数日しかありません。 つまりひっくり返らない日付、倒産しない日付、という事でこの日と決めました。マレーシアに最初に行ったのは会社設立より二年程前のことです。
当時、マレーシアの田舎では日本人は珍しくて、子供達は興味津々で私を見ていました。村はずれで、一緒に写真撮る?呼びかけに大勢の子供が出てきました。
私は、子供達に「日本式のジャンケン」を教えたり、数字の数え方を教えたりして遊びました。所が、その場所は警察官住宅が並んでいた場所だったのです。 こちらはそんな事を全く知らず、ただ子供達と遊びたかっただけなのに、「不審な人物がいる」と思われて警察官が二人出て来たのです。身振り手振りで怪しい者ではないと説明し、やっと無罪放免となった事を思い出しました。
マレーシアの友人の友人が材木の伐採業をしていて、熱帯雨林の山に連れて行ってくれました(正確には原生林では無いので、ジャングルとは言えない)。
彼らはマレーシアの少数山岳民族「サカイ族」の人達です。彼らも若いけれど私も四十そこそこ!若いが故に、怖い物知らず、向こう見ず、「未熟者」でした。
マレーシアで「木工事業」をやりたい、それだけの情熱で行ったのは良いのですが、「木材を使って何をやれば良いのか?」、皆目見当が付きませんでした。 ともかく木材の原産地を見たい、と友人に頼んで「製材所廻り」をしました。 主にマレー半島の北東部の村々(時には山中)にある製材所を尋ね歩きました。 十箇所以上は行ったと思います。
こうして、一、二年が経過しました。そして行き着いたのが、「南洋材を使って、屋外家具(ベンチや椅子や遊具)を作る事業をやる」、だったのです。 まずは私自身が「デザインと設計をした図面」を基に、それを加工してくれる会社を探す事から始めました。しかし、「コンテナ単位の仕事ならするが、少量の生産はしない」、そんな会社ばかりでした。それならば、先方の会社が「企画、デザイン、製造をした製品」の中で、「自分の抱くイメージと一致する商品」を探し出し、それを日本に輸入しようと考えました。 そして、とうとう良い商品を見つけました。それをコンテナ(一杯分の木工家具)で輸入しました。 でも、それは全然売れませんでした。と言うより、商品は良いはずなのに、「売り方が解らなかった」のです。結果として25年も経過した今でも、我が社の倉庫に眠っています。やはり「大量の商品」は手に負えない、「少量の手作り製品でなければ駄目」だ、との結論に至りました。その為には「製品の企画とデザイン、設計」を「自分の手」でしなければならない、と考えました。 それには、まず材料となる樹種を決めなくてはならない。 生産用の木工機械を揃えなければならない。 宣伝はどうする? 販売方法はどうする? 販路の獲得は大丈夫か? 難問が山積しました。 ちょっと考えただけで、「ハードルは100以上」有りました。 私は、このハードルを一つ一つ乗り越える決心をしたのです。 その中で最大の関門は「工場」でした。工場はマレーシア国内に作らなければならないのです。 現地の社員はどうする? 工場の管理は大丈夫か? 工場用地はどうする? 工場の建屋はどうする? 機械の配置は? 怪我への対応、保険は? 現地法人は? 輸出入の作業は? 水は? 電気は? クレームへの対処は? 材料と製品の運搬は? 住まいは何処にする? 計画の日程管理、工程管理は? 人事管理は? 経理は? 資金繰りは? もう頭の中は「満タン状態」でした。
このようにして、「私の木工事業」、「苦難の道」が始まりました。 が、それは今度の機会に書く事にします。