≪コスモスのバラード『 友 情 』≫ と言う演劇

一昨日「友情」と言う演劇が「千葉市民会館」で上演されました。私も誘われて観劇してきました。私の勉強不足で、この「友情」と言う演劇が19年間も上演され596回も公演されていた事を知りませんでした。この演劇のテーマは演題の通りで「友情」についてですが、物語の背景に流れていた思想は、「白血病」に侵された人を救うために活動している組織「(公財)日本骨髄バンク」が広く社会に応援を求めようとした思いです。演劇は、白血病患者と本人を取り巻く家族や友人が織りなす人間関係、その中から生まれ出た「互恵」と「温かい相互愛」を「劇の形」で表現したものだと感じました。私が知らなかっただけで、多くの皆さんも既に観劇されているかも知れませんが、まずは大まかな物語を記述します。

北海道で生まれ育った「島崎あゆみ」と言う中学生2年生の女子生徒がいました。彼女は「白血病」にかかってしまったのですが、両親は本人には告げまいとして苦しんでいました。しかしチョットしたきっかけで、「あゆみ」は自分が白血病である事を知ってしまうのです。両親は首都圏でより良い治療が受けられる事を期待して転居して来ました。

「あゆみ」は明るく活発な子、何事にも物怖じしない子でした。転校して来た学校では、大らかで率直な生徒達が学校生活を楽しんでいました。それは担任教師、「野本慎吾」の豊かな人間性による指導の賜物でもありました。ただ一人だけ、そんなクラスの雰囲気を斜に見て「グレている生徒」がいました。それが「森山信一」です。転校初日、「島崎あゆみ」は「森山信一」と争って、信一にナイフで脅される羽目になるのです。その時「あゆみ」は、「刺してみなさいよ!私はもう一、二年で死ぬんだから!怖くなんかないだから!」と啖呵を切ったのです。それを聞いた信一は衝撃を受け、反省をするのでした。「信一」の父は日本人として帰化した韓国人で、子供の頃周りから虐められて育ったのです。 父に「何故帰化したのだ」と攻め寄っていたのですが、段々とグレて行きました。しかし、「あゆみ」の病気を知った彼は、白血病の彼女を何とか助けたいと思い詰めるようになったのです。それをきっかけに、彼は立ち直ったのです。本当は優しい子だったのです。信一が「家庭の医学」をたどたどしく読んでいる姿に彼の両親は驚きました。彼は変りました。「あゆみ」はいつも争っていた「信一」に心を開き、淡い想いを寄せました。ある時、「私は大人になるまで生きたい!」、激しく抱いていた「望み」を、彼に打ち明けたのです。

夏休みに入る前に「あゆみ」はとうとう入院してしまいました。「あゆみ」の命が助かる唯一の方法は「骨髄移植」でしたが、日本中で49万人近くいるドナー登録者の中に、移植に適した血液型の人が未だ見つからなかったのです(実際に、これまでの骨髄移植は二万二千を超えています)。「あゆみ」に対して周りは、「きっとドナーは見つかるから」と励ますも、本人はあきめかけていました。彼女を励まそうとしても、為すすべがありません。彼女の髪の毛が抗がん剤の副作用で抜け落ちてしまいました。「あゆみ」は、毛の無い頭を友達に見られたくないと、泣きました。それでも周りを悲しませないように、精一杯平静を装っていました。しかし病状が悪化してくると、不安感に耐え切れず、見舞いに来た担任の「野本」先生に「死ぬのが怖い」と泣きすがるのでした。担任は「死ぬのが怖いのはみんな同じだ」と言うのですが、「あゆみ」は「自分は何の為に生まれて来たのか解らない」と先生に訴えました。しかし、先生にもその答えは出せません。

やがて夏休みになろうとした頃、少し病状が回復して「あゆみ」は退院出来ました。クラスメイトは、夏休みにみんなで「三浦三崎」に旅行に行く事を彼女に提案します。最初は頑なに断っていた「あゆみ」も、両親と先生の勧めで一緒に行くことになったのです。しかし旅先で「あゆみ」は、髪が無い事でどうしても皆に解け込めません。そこでクラスメイトは秘密裏に頭を「丸め」てしまうのです。「あゆみ」の頭に合わせたのです。「あゆみの髪が戻るまで「みんな」が同じ条件でいよう」、これを提案したのは一番のワルだった「森山信一」でした。三崎での2、3日が「あゆみ」にとってどんなに「幸せな時間」であった事か! こうして幸せの時は終わりました。夏休みが終わると、病状が悪化した「あゆみ」は再入院しました。しかし、まだ血液の合致するドナーは見つかりません。北海道から、「あゆみ」の主治医で、「あゆみ」も本当に好きだった「三村礼子」先生が、北海道の「コスモスの花束」を持って見舞いに来ました。心から喜んだ「あゆみ」でしたが、もう命の限界が来ていました。彼女は先生と両親に自分の想いを語り終えると、静かに息を引き取ったのです。

これが、かいつまんだ物語の概要ですが、二時間半の演劇を簡単にはまとめられません。全編に渡って流れていたのは「思いやりの心」でした。クラスメイトの役を演じたのは、地元を中心とした高校生達でした。毎年入れ替わりで演じて来たそうです。彼らは相当情熱的にに演技練習(稽古)をしたようです。途中でチームダンスも演じられましたが、見事な出来でした。息もピッタリ合っていました。子供たち全員が頭を坊主にしたのですが、私は舞台のボウス頭の「カツラ」が本当に良く出来ているな、と思っていたのですが、本当は女子までが頭を丸めて坊主頭にしていたのです。最初の髪の長い場面の時がカツラで、坊主頭は本物だったのです。役を演じた学生達の情熱が伝わってきました。

「何の為に生まれて来たのか?」「本当の友情とは?」そんな事を考えさせられる作品でした。

沖縄、「うるま市」の高校生が演じた「キムタカの夢」(肝高の阿麻和利)の演劇を思い出しました。沖縄の高校生の情熱は素晴らしかったけれど、この「友情」を演じた学生達の情熱も素晴らしいと感じました。

もう一つ、ラジオドラマ「線路の向こう側」(芸術祭参加ドラマ)と言う作品にも触れたかったのですが、長くなりすぎましたので、次回に廻します。

(注:二週間程、ブログの更新を休みます)

栄枯盛衰

今回はラオスの話です。

ラオスには、いわゆる高級ホテルと言われる所は皆無に近いかも知れません。(例え有ったとしても、私には縁がないので情報不足で本当の所は解らない) そんな事を前提にして読んでください。ラオスのホテル(と言っても、ゲストハウスの域を出ない)の中で、私好みの宿が、「ラーカム」ホテルと「メコン・ムーン」インです。 

「ラーカム」ホテルは、ラオス北部のウドムサイ県の北東部の外れに位置する、「ムアンラー」と言うビレッジにあります。中くらいの川が、「ムアン・ラー」の村中を大きく蛇行して流れ、少ないながらも田んぼもあるし、かなり立派で由緒ある仏教の「寺」もあって、比較的豊かな村です。「ラーカム」ホテルは、その川が「U」の字を描くように曲がる外側辺に位置しています。この川はメコン川の「支流のまた支流」で、山中を蛇行しながら他の支流との合流を繰り返しながら、300Kmか400Km流れ下った後、「ルアンパバーン」でメコン川の本流に流れ込むのです。上流域部に位置するここ「ムアン・ラー」では、この川の幅は四、五十メートルくらいです。水深は比較的浅く、川の手前側の奥ゆき数メートルくらいは、深さは膝か腰くらいしかありませんが、川の半分より向こう側の水深は2m以上有りそうで、結構流れも速く薄緑色の水が流れていました。浅瀬の川底はスイカ程の大きさの丸い石が敷き詰められたように広がり、その大きな石の間には野球のボール大の石で満たされているような状態でした。私はこの風景を気に入っていました。以前、私は一度だけですがこの川に入りました。   

それは晴天の暑い日の正午頃の事でした。大汗をかき、へとへとに疲れていた私は、一人で短パン一枚だけの姿になって川に入ったのです。水は澄み切ってはいなかったけれど、手前側の浅瀬は水底が見える程度の綺麗さで、冷たくは無く水浴には丁度良い水温でした。私は用心の為、「危険」な流れの速い場所には近付かないように気をつけました。なので、水深が膝か腰程度の場所で川底の石を掴みながら、全身を「水草の心」にして、「流れに逆らわず、流されもせず」の姿勢で川に浸かっていました。水に浮かぶと流されそうなので、常に川底の石を頼りにし、同じ位置に留まっている事に注意を払っていました。

10分も浸かっていた時でしょうか、同じホテルに泊まっていた「夫妻」の「奥さんの方」が水着姿で川に入って来ました。50m以上離れていたので、顔までは見えなかったけれど、若くない事は確かでした。旦那は川岸で奥さんを見ていました。流されるのを心配していたのかも知れません。石の表面は黄土色の藻のような物が付いていて滑りやすく、油断出来ない状況だったのです。そうやって流れに任せて30分くらい浸かっていると、体の火照りが収まりました。   よろけながら滑る石の上を歩いて部屋に戻り、シャワーで体を洗い流しました。(ラオスのホテルは、何処でもそうですがシャワーには一応電気式の温水器が付いています)その時は、川で冷やした我が身に温水の温みが伝わって来て、心地よい気分で満たされました。この周辺は「リゾート地域」に指定されているのですが、10部屋程しかないこのホテルは、全室が川に面している平屋の細長い建物でして、どの部屋の前もコンクリートで固められたテラスが有り、その直ぐ前を川が流れていると言う「按配」になっていました。その夫婦は、同じ並びの幾つか先の部屋に泊まっていたようなのです。でもって、この夫婦以外、人の姿は全く見えませんでした。(時折、ロープも何も付けられていない放し飼いの水牛が、川原や部屋の直ぐ前の草むらにやって来て、草を食べていたけれど人間ではないですからね)

旅の疲れを感じていた私は、シャワーを浴びた後、部屋の窓とドアを開け放って風を入れ、素裸のままでベッドに横になって、川がせせらぐ音を聴いていました。体から疲れが「蒸発」して行くような感じがしていました。 が、その内にウトウトと眠ってしまったようです。「遠く響く川の音」だけが聞こえました。 洗い晒された古い木綿地のタオルケットとシーツ、粗末で素朴な調度品しかない殺風景な部屋、その上レンガ壁の古めかしい造りです。日本の「若い女性」や「都会派の人達」だったら「見向きもしない」と思える、そんなホテルでした。でも私にとっては「癒しの空間」であり「快適な空間」でした。

そんな事があった翌朝、そのホテルの「レストラン」で食事をしました。レストランと言っても、部屋から200m程離れて同じように川の前に在る、屋根だけの吹き抜けの建物です。そこの朝食は毎回同じでして、「コッペパン」とバター、ジャム、あとは目玉焼きと牛乳、時々はオレンジジュース、それから果物とコーヒーでした。涼風に吹かれながら川を眺めて食事をしていたら、昨日の夫婦もレストランに出向いて来ましたので、粗末な英語で話をしました。彼と彼女はフランスから来た人のようでした。旦那は学校の教師をしていたけれど、数年前に退職した後、世界のあちこちを旅する事を趣味にしているとの事でした。ラオスは非常に気に入った国で、過去にも何度か訪れたと言っていました。旦那が私に、「昨日は水浴びをして気持ち良かったろう!」みたいな事を言っていたので、こちらも「あんたも一緒に水浴をすればよかったのに!」みたいな事を言って笑い合いました。彼は「今日は川の向かいの道を徒歩で辿って、そこの奥にある集落を訪ねるのだ」、なんて事を言っていました。「そうか!それが西洋式の楽しみ方なんだ」と思うと、日本人である自分の「せせこましい体」の中にある、何とも言いがたい「惨めっぽさを秘めた姿」を想像してしまいました。

ところで、このホテルの「オーナー」なのか「管理人」なのか分かりませんが、何度か私を迎えてくれた「彼」、本当に親切な人だと感じました。朝食をテーブルに運んでくれた時の「物腰の柔らかさ」や、何度かあったのですが、こちらからの質問にも丁寧に答えてくれた時の「応対のし方」もそうでした。最初に訪れたとき、部屋で「WiFi」を使いたいが電波が届かないと言えば、この受付事務室を夜間でも使用できるようにしておくとか、「ポケットワイファイを貸して上げる」とか、飲む水は足りているか?とか、その気配りに対し大いなる感謝の念を抱きました。

ところで、今年もそのホテルをネット予約しようと試みたのですが、何度やっても「予約が取れた状態」になりませんでした。私は、ネット回線がトラブルでも起こしているのだろうと考え、予約無しで行くことにしました。そして自分の作ったスケジュールに従って、そのホテルを訪れたのです。

しかし、今年はどうも「様子が変」でした。そこには人が全くいないのです。以前は同じ場所に立った時、そのオーナーらしい人が笑顔で迎えてくれたのに、その時は迎えてくれる人の姿が全く見えなかったのです。今日は休業日なのか?と思って、事務室の前まで行きました、ところがドアには鍵が掛かっていました。事務室の横には車が駐車してあったので中には誰かいるのかと思って、ガラス越しに中を覗いたのですが、中は荒れていて物が散乱していました。改めて見ると、ドアには紙が張ってあり、ラオス語で何か書いてありました。でも全く読めません。私の想像では、このホテルは「閉鎖」したと書いてあったのだと思います。これも想像に過ぎませんが、このホテルは「倒産」してしまったのです。 以前もそうでしたが、このホテル「客が極めて少なかった」ようです。何も解らない私は、「ラオスではこの程度の客しか来なくても十分にやっていけるのか!」、と思っていたのです。でも何処の国だって事情はそんなに違うはずはありません。私は事務所を覗いた後、奥まった所にある、何度か泊まってたので「勝手知りたる宿の部屋」の前に行ってみました。周りの草は伸びていて、侘しささえ醸していました。急に、あの親切だった「彼」に合いたくなりました。 けれども、問い合わせる手段は何もありません。あんなに親切な対応で客をもてなしてくれてたのだから、「昔はさぞかし繁盛した」のだと思います。しかし、世の中の評価は厳しく、「客足が遠のく力」には勝てなかったのです。

何故か、私はこの出来事に「自分の姿」を重ねて合わせてしまいました。こちらの側が、どんなに「思いを尽くし、誠実に社会に接した」としても、「社会ニーズにマッチ」しなければ、結局は「世の中から無視され、消えて行く運命にある事」を実感しました。現代の世の中は、「例え『実』が無くても、綺麗で体裁が良いもの」、「面倒がなくて簡単に楽しめる事」、「ネットへの投稿で写真映えする場所」、「宣伝が行き届いて、誰もが知っているブランド品」このような事物でなければ、受け入れられないのかも知れません。

窓越しに撮った部屋に漂っていたのは、侘びしさばかりでした。