「化石燃料発電」「原子力発電」「自然エネルギー発電」、その4

今の状態で化石燃料を使っていたら、20年を待たずに地球の異常気象は「制御不能」状態になると思います。原子力は大きな自然災害を受けない限り「制御可能」です。しかし地球温暖化の問題は「炭酸ガス」に始まり、そのうちに「メタンガスの問題」へと拡大して行きます。そうなったら、「人類には手の打ちようがなくなる」のです。異常気象で毎年、何十万人、何百万人もの人が犠牲になるのです。「原子力災害」によって犠牲になった人々は本当に気の毒だと思いますが、まだ「国」や「周り人々」の力で支援が出来る範囲です。しかし「甚大な自然災害が世界中で起こるようになった時」、災害への救済支援は「不可能」になると思います。その時に人類は「絶滅の危機」に晒される気がします。

人類は「地球上に現れた最悪の生き物」だと私は思っています。事によると、絶滅したほうが、「地球全体の為」にはいいのかも知れません。

このテーマで長々と書き連ねましたが、ようやく今回で終わりに出来ます。  もし、きちんと読んで下さった方がいましたなら、本当に有難うございました。さぞかし読むのが大変だったのでは、と想像しています。 書いているこちらも、かなり疲れましたけれど。

ところで、最近、私は色々な意味で「現代社会」に反発を感じています。余りに「安易さを求める傾向が強い」からです。 このブログは「パソコン」書いています。パソコンのディスプレイ上での一行の文字数もそれなりに気にして、改行にも気配りしています。 ところが「スマホ」では「非常に読みにくい、もっと要約すべきだ」との批判を何度も受けています。昨今は、スマホを使う人が90%を越えているのだから、それに配慮すべきだ、との指摘です。確かにその通りでしょうが、このブログだって、パソコンを使えばずっと詠みやすいはずです。私は古いタイプの人間ですので、「自分の道は通す」つもりです。読みにくい点はお詫びしますが、今でもパソコンにこだわっている、数%しかいない「絶滅危惧種」を大切にしてゆきたいのです。どうぞご理解をお願いします。

ここで私の生き方、信条の一つを記述します。 私は「ガリレオ」や「ドンキホーテ」、方舟を作った「ノア」、これらの人達の生き方に好感を持っています。 但し、ガリレオの事は伝記でしか知らないし、ドンキホーテの小説をきちんと読んでもいないし、ノアに至っては「聞きかじりの域」を出ていません。 彼等の「生き様」を「ぼんやりとした感覚で捉えている」に過ぎません。自分の中にあるイメージとしては、彼らが社会から「異端視」され「嘲笑された」人物達だった、と単純に映っています。私自身は、彼等のように偉大では無いけれど、周りからは「奇人」にして「非常に扱いづらい人間」だと思われている感があります。その共通点から来るのでしょうか? 彼らに親近感を感じるのです。

私は多数決で物事を決める事に「強い反発」を覚えます。だから「民主主義」が最良の社会システムだとは思っていません。例えば、普通の人なら、明日の天気予測を「多数決」で決めてもじょうがない! と、当然そのように考えるでしょう。 それなのに、誰にも解らない「未来」の事を多数決で決めようとします。どうして「多数意見」が正しくて、その意見を採用する事が「最良の選択」と言えるのでしょうか? 「スマホを使うのが世の中の趨勢」だと主張する人々、 「風車に向かって戦いを挑む奇人を嘲笑した大衆」、「ノアは気が狂っていると言って笑った、聖書の世界の人々」、 世界は「常識人が支配してる」のです。 「大多数の意見を聞き入れないで、自分の信じる道を行く、一握りの人達」。 私はこちらのグループに所属していたいのです。もっとも「ガリレオ」は、宗教裁判にかけられ地動説を引っ込めた後で、「それでも地球は動いている」と言ったと言い伝えられていますけれど。 私は周囲から袋叩きに会った後に、「それでもパソコンの方が良いのだ!」「それでも原子力発電は必要だ!」「一番良いのは潮汐力発電だ!」と言いたいのです。

私は以前から「地球規模の異変」に強い危機感を抱いて来ました。闇雲に「原子力発電反対を唱える人々」よりも、私の危機感の方ががずっと強い気がします。