『名月赤城山』

「 ♪♪ 合羽~ からげて~ 三度笠~ どこをねぐらの渡り鳥~」こんな歌を知っている人は本当に少なくなりました。「終戦後」間もなく、から「昭和の高度成長期」に入る頃が、「股旅演歌」の最盛期だったと思います。この歌詞は「三波春夫」も歌った「雪の渡り鳥」の出だしの一節です。懐メロの「股旅もの」と言えば、「旅烏」「旅笠道中」「流転」「名月赤城山」「大利根月夜」それから「次男坊鴉」、等々本当に沢山あります。当時、「股旅歌謡」と「股旅舞踊」は大衆娯楽の一角を担っていました。「船橋ヘルスセンター」ではドサ廻りの一座がいつも舞台で大活躍していました。そして私が知っている歌と言ったら全部が「股旅演歌」だったのです。

我が家の隣には、竹を組んだ垣根を挟んで「村の集会所」がありました。(現在は我が家の庭が道路になってしまったので、今や道路の向こう側となっていますし、集会所は他所に移りました)

この話は、私が未だ小学校の高学年、そんな頃の出来事ですから、かれこれ60年前の話になります。誠に古い話で恐縮です。でも、今回は「盆」にふさわしい出来事を、と思いましたので大昔の事を書こうと思います。だって「盆」の間は、先祖達の霊がそこいら中にいて、久しぶりの子孫との再会を喜んでいるはずですからね。

昔、「盆」が終わると我が村の集会所は、にわかに「にぎやか」になりました。しかも、それは夜の時間帯にです。というのは、私の部落の「村祭り」は10月15日なのですが、「村の青年団」がその「大イベント」に向けて、準備を開始したからです。子供にとって、いや大人にとっても、「祭」は「盆や正月」以上に楽しい出来事でした。祭りの計画も、下準備をするのも、練習をするのも、全てが集会所で行われました。

我が家からは、庭に生えていた梅の樹の枝を透かして、集会所の様子が手に取るように見えました。盆が過ぎて、少し涼しくなった頃に、毎晩のように青年団は、割れているような音を出す「電蓄」(当時は電気式のレコード再生機をこのように呼んでました)の音量を目いっぱいに上げて、股旅演歌を流していました。窓を開け放った室内、裸電球から漏れ出た光は暗闇にまぎれた梅の葉をチラチラと照らしていました。いつも、十数人の若者が電球の下で動き回っているのが見えました。そうなんです、青年団は祭りに掛けられる「村芝居」の練習をしていたのです。祭りの時、この若者たちは「大スター」に変身するのです。だから皆さん真剣だったと思います。

彼らが祭りの舞台で踊る「股旅舞踊」は祭りのハイライトでした。彼らは、「♪ 合羽からげて~三度笠~」とか「♪ 何処へ行くのか次男坊鴉~」とかの流行歌に合わせて、何灯もの裸電球が照らし出す舞台で踊るのです。今にして思えば、曲目は毎年同じでした。だから毎年変り映えがしませんでした。しかも踊りの「振り」は先輩格の若者が後輩に伝授するだけですから、いい加減なものだったと思います。でも当時はテレビも無い時代だし、「隣のあんちゃん」が舞台で踊るのですから、それはそれは大変なも、「大喝采」だったのです。正に祭りは「村のアンチャン」が「大スター」になる日でした。そして何といっても、最高の見せ場は「名月赤城山」の芝居でした。これも毎年同じ演目でした(これしか出来なかった)が、青年団俳優は、セリフが暗記できないので舞台のあちこちにセリフを書いた「アンチョコ」を張っていました。

私の記憶でしかありませんが、この村芝居、「名月赤城山」の筋書きを紹介しておきます。  ≪国定忠治は赤城山一帯を「博打場の縄張り」としていた「博徒の親分」でした。ある時、忠治はつまらない事で、関所破りをしたのです。そして役人に追われた忠治は昔世話をした「勘助」の家に逃げ込みました。勘助は昔の恩義を忘れてはいませんでした。勘助は忠治を何とか逃がそうとして、役人の手助けをする振りをしたのです。御用、御用と言いながら逃げ道がある方へ忠治を追い立てました。忠治にはその意味が解りませんでした。その時、忠治はその場を何とか切り抜け、逃げ延びたのです。しかし、忠治は「裏切り者の勘助」を許せなかったのです。(私が思うに、忠治って余り頭が良くなかった) 勘助を裏切り者と思い込んでいた忠治は、後日、勘助の家に押し入って勘助を襲います。忠治は大した抵抗をしなかった勘助を切ってしまいました。勘助は「いまわの際」に、「親分が役人に追われたあの日、自分が役人の助っ人したのは、恩義のある親分を何とか逃がそうと考えて逃げ道を教える為だった。」と言って息を引き取ったのです。忠治は早まったと後悔したけれどもう手遅れでした。その時、死んでしまった勘助の近くで赤子の泣く声がしたのです。忠治は驚いてその子を抱き上げます。勘助の子供でした。勘助の女房は病気で亡くなっていました。勘助は一人で赤子を育てていたのです。勘助を切った事を強く後悔していた忠治は、その赤子を自分が育てる決意をしたのです。≫ 

この時の忠治の心境を歌ったのが、「東海林太郎」によって歌われた「赤城の子守歌」です。赤ん坊の名前は確か「勘太郎」だったと思います。「勘太郎月夜」と言う股旅演歌がありますが、この勘太郎と関係があるのかどうかは知りません。

話は長くなりましたが、我が部落の青年団が活躍したのは4.5年くらいの間でした。時代が進みテレビが出て来たし、毎年同じ中身の舞台に皆が飽きて来た事も事実です。それとも、メンバーも年をとって「バカ騒ぎ」が嫌になったのでしょうか? それと、世間が忙しなくなって来たせいも、きっとあるでしょう。そして、時代の流れと共に「青年団」は消えてなくなってしまいました。それはともかくとして、この「名月赤城山」舞台、背後を飾る「背景画」を描いたのは私の父親でした。その絵には「深い赤城山」と「杉木立の林」が描かれていました。それと共に、「地蔵様」が描かれていました。その地蔵様、実は、私の父親が私を大きな布の前に立たせ、電気で照らして私の影を作って、それを地蔵の原形にしたのです。この背景画も毎年使われていました。だから、私の影は毎年舞台の背景を飾っていたのです。

あれから60年が過ぎ去りました。あの時の青年団員、もう大半の人が亡くなってしまいました。私の叔父が青年団結成当時の団長をしていましたが、その叔父も何年か前に亡くなってしまいました。未だに当時若者だった青年団の印象が蘇ります。小さな事までが、本当に楽しく感じられる時代でした。

注:残念ですが、当時の写真は手元にありませんので掲載出来ません。