暑い夏が終った

昭和20年8月15日、昭和天皇のいわゆる「玉音放送」があり、大東亜戦争が「敗戦」となった事が国民に伝えられました。正式な終戦はその半月後でした。日本が無条件降伏した後なのに、ソビエト軍は千島列島を守備していた日本軍を攻撃して来たのです。日本軍はこの地域はでは「まだ兵器を温存していた」ので十分な戦力があったにも関わらず、反撃することを禁じられていました。この列島では、夏が過ぎてもまだ戦争は終っていなかったのです。この事実を作家の「浅田次郎」が小説『終らざる夏』として作品にしました。

今年は「残暑見舞い」の季節に入っても、まだ盛夏が続いています。気象庁は相変わらず酷暑を予測し、まだまだ夏は終わりにならない予報を出し続けています。でも、「私の夏はようやく終了した」の感があります。この夏、私は忙しい日々を送りました。元来、私は直射日光に弱い体質ですが、それでも幾つかの「炎天下でやらざるを得ないお役目」があって、無理をしました。その為でしょうか?熱中症になってしまいました。吐き気がし、横になって体を冷やさざるを得なくなったのは一回だけですが、何度か寸前のところまで行きました。何度も同じ轍を踏む「愚か者」になりたくなかったので、寸前で休憩を取り、助かりました。こうして、私の夏は過ぎ行き、屋外で作業をするような「お役目」は終りました。 だから、私の夏は終ったのです。

我が邦の地域で開催される「盆踊り大会」、その実行委員を務めること、それが私にとって、この夏一番のお役目でした。もっとも、私は「新米の下っ端」だから指示されるままに動いただけなのですけれど。中には、その仕事を20年も担っている人が結構いるのです。たいしたもんです。

私も「若い頃」は、様々な「夏のイベント」に参加し、よく動きました。でも、当時は熱中症なんて考えもしませんでしたし、具合悪くなった事も有りません。 振り返れば、ディズニーランドが「グランドオープン」したその年の夏、「レーザーショー」と言われたイベントが始まりました。これは夜間のパレード、「エレクトリカルパレード」の前身です。私は「特別効果係」スタッフの一員としてシンデレラ城などの屋根に上って、悪条件下での作業をしました。それからもうひとつ、これも二十数年前になりましょうか、幕張メッセの浜で行われた「都市緑化フェアー」では「飛行船」を作り、フェアを盛り上げる役割を担いました。

どちらも「真夏の約一ヶ月間」のイベントでした。「ディズニーランド」でも「幕張メッセ」でも「風」との戦いでした。風速が3、4メートルになると、もうどうにも制御が効かない状況なのに、海岸だから直ぐにそれくらいの風は吹きました。しかし、「上手く行かなくて、恥をかく事を覚悟の上」で、実行せざるを得ませんでした。本当に苦労の連続でした。でもお陰で、今ではそれらの事が私の「語り草」になっていますし、「数少ない自慢話」でもあります。その仕事、「設計」やら「機器の試作や製作」やらで、数ヶ月も前から準備作業に入ったのです。だから、その年は日焼けで真っ黒になった上に3、4キロは痩せました。やはり若かったのですね、それとも「苦難」続きで「緊張」していたせいでしょうか? そのイベントが終るまで、私が倒れることは有りませんでした。

ところで、「中小企業家同友会」と言う全国組織が有りますが、私は三十数年間、千葉県の会員として在籍しています。昔、その組織で「納涼大会」なるものを数回やりました。ある年、私は「納涼大会の企画係」を担当しました。だもので、初夏から約1ヶ月間くらいは、「仕事を投げ出し」て準備をしなければならい羽目になりました。 

さて、今年、盆踊りの準備をしていた時、昔の「納涼大会」の準備作業と、今年の「盆踊り大会」の準備作業、「現場の雰囲気がよく似ている」と感じました。どちらも「きつい肉体作業」でしたし、大勢の人が関わる「共同作業」だったのですが、「文句をつける人」や「愚痴を言う人」は皆無でした。全員が、「そのイベントを楽しみにして集まってくる人々の事を想像しながら」、和気藹々と体を動かしている様子でした。(そんな中で出来た人間関係は未だに健在です)

「納涼大会の当時」、私の歳は「四十代前半」で、「今年の盆踊り大会」では「七十歳」になりました。その間、時間としては三十年近い隔たりがあります。なのに、皆さんが一緒になって作業する雰囲気は、どちらも同じだと感じたのです。盆踊り大会の準備作業を手伝っている人には、四十代の人も大勢いて力強く働いていました。

機敏に動くその姿は、まるで「若い頃の自分」を見ているようでした。「俺も年取ったもんだ」そんな事を考えると、感慨深いものがありました。

世の中「世知辛く」なっていますが、「ボランティア活動」などを含め、このような、人の為に「労力を惜しまず、汗を流す様子」に、爽やかさを感じます。

この飛行船、今でも倉庫の天井にたたんだ状態で在ります。記念の品物です。

『名月赤城山』

「 ♪♪ 合羽~ からげて~ 三度笠~ どこをねぐらの渡り鳥~」こんな歌を知っている人は本当に少なくなりました。「終戦後」間もなく、から「昭和の高度成長期」に入る頃が、「股旅演歌」の最盛期だったと思います。この歌詞は「三波春夫」も歌った「雪の渡り鳥」の出だしの一節です。懐メロの「股旅もの」と言えば、「旅烏」「旅笠道中」「流転」「名月赤城山」「大利根月夜」それから「次男坊鴉」、等々本当に沢山あります。当時、「股旅歌謡」と「股旅舞踊」は大衆娯楽の一角を担っていました。「船橋ヘルスセンター」ではドサ廻りの一座がいつも舞台で大活躍していました。そして私が知っている歌と言ったら全部が「股旅演歌」だったのです。

我が家の隣には、竹を組んだ垣根を挟んで「村の集会所」がありました。(現在は我が家の庭が道路になってしまったので、今や道路の向こう側となっていますし、集会所は他所に移りました)

この話は、私が未だ小学校の高学年、そんな頃の出来事ですから、かれこれ60年前の話になります。誠に古い話で恐縮です。でも、今回は「盆」にふさわしい出来事を、と思いましたので大昔の事を書こうと思います。だって「盆」の間は、先祖達の霊がそこいら中にいて、久しぶりの子孫との再会を喜んでいるはずですからね。

昔、「盆」が終わると我が村の集会所は、にわかに「にぎやか」になりました。しかも、それは夜の時間帯にです。というのは、私の部落の「村祭り」は10月15日なのですが、「村の青年団」がその「大イベント」に向けて、準備を開始したからです。子供にとって、いや大人にとっても、「祭」は「盆や正月」以上に楽しい出来事でした。祭りの計画も、下準備をするのも、練習をするのも、全てが集会所で行われました。

我が家からは、庭に生えていた梅の樹の枝を透かして、集会所の様子が手に取るように見えました。盆が過ぎて、少し涼しくなった頃に、毎晩のように青年団は、割れているような音を出す「電蓄」(当時は電気式のレコード再生機をこのように呼んでました)の音量を目いっぱいに上げて、股旅演歌を流していました。窓を開け放った室内、裸電球から漏れ出た光は暗闇にまぎれた梅の葉をチラチラと照らしていました。いつも、十数人の若者が電球の下で動き回っているのが見えました。そうなんです、青年団は祭りに掛けられる「村芝居」の練習をしていたのです。祭りの時、この若者たちは「大スター」に変身するのです。だから皆さん真剣だったと思います。

彼らが祭りの舞台で踊る「股旅舞踊」は祭りのハイライトでした。彼らは、「♪ 合羽からげて~三度笠~」とか「♪ 何処へ行くのか次男坊鴉~」とかの流行歌に合わせて、何灯もの裸電球が照らし出す舞台で踊るのです。今にして思えば、曲目は毎年同じでした。だから毎年変り映えがしませんでした。しかも踊りの「振り」は先輩格の若者が後輩に伝授するだけですから、いい加減なものだったと思います。でも当時はテレビも無い時代だし、「隣のあんちゃん」が舞台で踊るのですから、それはそれは大変なも、「大喝采」だったのです。正に祭りは「村のアンチャン」が「大スター」になる日でした。そして何といっても、最高の見せ場は「名月赤城山」の芝居でした。これも毎年同じ演目でした(これしか出来なかった)が、青年団俳優は、セリフが暗記できないので舞台のあちこちにセリフを書いた「アンチョコ」を張っていました。

私の記憶でしかありませんが、この村芝居、「名月赤城山」の筋書きを紹介しておきます。  ≪国定忠治は赤城山一帯を「博打場の縄張り」としていた「博徒の親分」でした。ある時、忠治はつまらない事で、関所破りをしたのです。そして役人に追われた忠治は昔世話をした「勘助」の家に逃げ込みました。勘助は昔の恩義を忘れてはいませんでした。勘助は忠治を何とか逃がそうとして、役人の手助けをする振りをしたのです。御用、御用と言いながら逃げ道がある方へ忠治を追い立てました。忠治にはその意味が解りませんでした。その時、忠治はその場を何とか切り抜け、逃げ延びたのです。しかし、忠治は「裏切り者の勘助」を許せなかったのです。(私が思うに、忠治って余り頭が良くなかった) 勘助を裏切り者と思い込んでいた忠治は、後日、勘助の家に押し入って勘助を襲います。忠治は大した抵抗をしなかった勘助を切ってしまいました。勘助は「いまわの際」に、「親分が役人に追われたあの日、自分が役人の助っ人したのは、恩義のある親分を何とか逃がそうと考えて逃げ道を教える為だった。」と言って息を引き取ったのです。忠治は早まったと後悔したけれどもう手遅れでした。その時、死んでしまった勘助の近くで赤子の泣く声がしたのです。忠治は驚いてその子を抱き上げます。勘助の子供でした。勘助の女房は病気で亡くなっていました。勘助は一人で赤子を育てていたのです。勘助を切った事を強く後悔していた忠治は、その赤子を自分が育てる決意をしたのです。≫ 

この時の忠治の心境を歌ったのが、「東海林太郎」によって歌われた「赤城の子守歌」です。赤ん坊の名前は確か「勘太郎」だったと思います。「勘太郎月夜」と言う股旅演歌がありますが、この勘太郎と関係があるのかどうかは知りません。

話は長くなりましたが、我が部落の青年団が活躍したのは4.5年くらいの間でした。時代が進みテレビが出て来たし、毎年同じ中身の舞台に皆が飽きて来た事も事実です。それとも、メンバーも年をとって「バカ騒ぎ」が嫌になったのでしょうか? それと、世間が忙しなくなって来たせいも、きっとあるでしょう。そして、時代の流れと共に「青年団」は消えてなくなってしまいました。それはともかくとして、この「名月赤城山」舞台、背後を飾る「背景画」を描いたのは私の父親でした。その絵には「深い赤城山」と「杉木立の林」が描かれていました。それと共に、「地蔵様」が描かれていました。その地蔵様、実は、私の父親が私を大きな布の前に立たせ、電気で照らして私の影を作って、それを地蔵の原形にしたのです。この背景画も毎年使われていました。だから、私の影は毎年舞台の背景を飾っていたのです。

あれから60年が過ぎ去りました。あの時の青年団員、もう大半の人が亡くなってしまいました。私の叔父が青年団結成当時の団長をしていましたが、その叔父も何年か前に亡くなってしまいました。未だに当時若者だった青年団の印象が蘇ります。小さな事までが、本当に楽しく感じられる時代でした。

注:残念ですが、当時の写真は手元にありませんので掲載出来ません。

『盆』

昔は楽しい事の代名詞のように言われていた「盆」と「正月」。特に楽しみが大きい時は、「盆と正月が一緒に来たようだ!」と、こう言ったものです。それが今では、「盆」も「正月」も「ちょっと長い連休の期間」でしかなくなってしまいました。テレビではおざなりに盆の様子を流していますが、帰省ラッシュとか、高速道路の渋滞とか、気の抜けたサイダーみたいな話ばかりです。日本が豊かになったせいなのでしょうかね? 言い替えれば「一年中、盆と正月が来ている様なもの」となるのでしょうかね? 私の中に、「これでいいのか?」と強い疑問と懸念とが入り交ざった感情が沸き上がって来ます。

ところで、我が家は今年も大きな支障を抱える事無く、迎え盆の準備をする事が出来ました。「我が家」と言っても、実際に盆の支度をするのは私とカミサンの二人だけなのです。私は古いタイプの人間だから、なるだけ昔のままの形で盆の行事を迎えたい方ですから、自分が準備をするのは当然の事だとは思います。 でも、カミサンはクリスチャンだから盆の行事とは無関係のはずです。もっとも、私も仏教を信仰しているわけではないので、盆が仏教的にはどんな意味を持っているのか、先祖の霊が返って来るのを迎える日、位の事しか知りません。ただ「伝統を絶やしたくない」、そんな思いでいるだけです。ところが、私より仏教から遠い位置にいるはずのカミサンですが、毎年熱心に迎え盆の支度をしてくれています。私よりも遥かに盆の行事について詳しく知っていて、こちらが忘れている事を指図するのですから、カミサンにはちょっと頭が下がります。お寺に「盆供」を持って行きなさいとか、早く「墓掃除」をしないと近所の人に笑われるとか、花を注文したかとか、明日は朝早く墓に行くんだからね、とか毎年尻を叩かれているのです。

私は、「今やろうと思ったのに」と言い訳をしながら、今年も仏壇の棚吊りをしました。父親が亡くなる前から私は棚飾りをしていたので、私がやるようになって、もう15年位にはなります。別に誰かに教わった訳でもなく、見よう見まねでやっているだけですが、大体は昔と同じような形にはなっていると思います。

私が行う棚吊り作業ですが、まず仏壇から全ての位牌を出して濡れ雑巾で拭う事から始まります。毎年の事ですが位牌を拭いている時に、我が家の先祖が確かにいた事を意識します。子供の位牌は薄い板に戒名らしき名前が書いてあるだけです。その板が実に多いのです。恐らく子供のまま亡くなる先祖が多かったのでしょう。我が先祖には特別に偉い人がいた訳でもないし、立派な位牌がある訳でもありません。ただ古いだけの事です。古くて文字が薄くなり、読めなくなっている位牌もあります。興味深いのは、時代時代によって「この先祖の時、きっと貧しかったに違いない」とか、「この先祖の時はちょっとは余裕があったらしい」とか、位牌の質で解ります。ただの板切れみたいな位牌もありますからね。だだし大昔我が家の隣の寺が火事を出し、我が家も燃えてしまったらしいのです。だから、結構古い墓石はありますが、それ程古い位牌は無いのですけれど。 そんな事を考えながら丁寧に位牌を雑巾で拭いていると、「こんな事をするのも、自分の代で終わりか」のような「感傷じみた思い」が浮かんできます。  我が家の、「倅も孫も」こんな作業には全く興味が無いので、目もくれません。 

棚吊りの話の続きですが、それから、庭の草花を摘んで来て仏壇を飾り、燈篭を組み立て、提灯のとロウソクの支度をします。そして、最後にカミサンが仏壇に花を供えて「迎え盆の準備」は終わりになります。

その後は、いつもの休日と変わりません。お茶飲んで一休みして、「今年は隣近所では、棚吊りをどうしたんだろうか?」とか、そんな話をした後で、「何時までこんな形の『盆』が続けられるんだろね?」と、ひとしきり喋ったのも去年と同じでした。

 

思えば遠くへ来たもんだ

昔、「海援隊」が歌った唄に「思えば遠くに来たもんだ」と言うのがありました。この歌詞の概要は、ある少年「T」が14歳の頃、線路脇のコスモスを揺らして走る貨物列車が作る「レールの響き」を聴いて、遠くの世界に夢を馳せていたのです。少年は二十歳になって失恋し、遠くの世界に旅立った。そして家を出てから三十年が過ぎ、今では妻子を持つ親父になった。そしてその主人公は、昔を懐かしみ「思えば遠くへ来たもんだ」と静かに歌う。そんなストーリーです。

最近、我が家で「昔の話」をした時よく出る言葉、「あれから、もう30年位は過ぎたかな~」です。 以前は、「10年前の話をしている年寄りを馬鹿にしていたのに、今や30年前の話を平気で昨日の事のように話してる。俺たちも年をとったもんだな~」なんです。我がカミサンとの縁が出来て、はや50年が過ぎました。だから、30年前の話なんて「新しい」部類に入るのです。ほんとに、遠くへ来たものです。

これまでで、私が行った距離的に一番遠い場所はモロッコだと思います。そして距離的には半分しかないのに、所要時間として一番遠い場所は「ラオス」です。

でも「心理的な時間軸で、現時点からの遠さで」考えると「マレーシア」です。今でも鮮明に残像として残っているのはマレーシアの「フレーザーズ・ヒル」という山の上です。当時その山頂にはヨーロッパ風の小さな町がありました。  今なら山裾の国道から1時間半もかければ行けますが、当時は遠かったのです。そこまでの道は、時間帯によって「上り専用の時間、下り専用の時間」となるような場所もあって、狭くて曲がりくねった砂利道の悪路でした(今は細いながらも舗装されているし、対面通行が可能)。その頂上から20分程下った所に、落差が5m位の小さな滝があります。滝は、池のようで滝壺とは言えないくらい小な円形の水盤に落ちていました。水は茶色に濁っていましたが、山の土が混ざったもので不潔ではありませんでした。そのプールのような水盤で、数人のインド人家族が水浴をしていました。私は友人に、自分も水に入りたいとせがみ時間をもらいました。そしてシャツを脱ぎ、下は短パンのままその池に入りました。

水は冷たくなかったし、滝のしぶきも程良かった。仰向けに浮かんだ水面から眺めた上空には、鼠色の雲が薄い水色の空を背景にゆっくりと流れていました。まことに快適な水浴が出来ていました。その時、私は水に浮びながら不思議な感覚に陥っていました。すぐ近くで色の黒い子供達の声が響いているけれど、何を言っているのか全く解らない。この場所にいる日本人は自分一人。ここは赤道直下、マレー半島の真ん中付近。今ではインターネットで簡単に地図が見れますが、当時の世界地図には、こんな場所は載っていません。不思議な感覚とは、自分がこの場所にいる事をどうしても実感出来なかったのです。それでも、私は確かに濁った水に浮かんでいて、周りには知らない言葉が行きかっていたのです。地球儀で見れば赤道付近の極小の点よりもっと小さい点なのに、何故か自分がそこにいるのです。その時です、私は「遠くに来たもんだ」と心底思ったのです。それまで、海外なんてテレビで見るもので、自分が赤道直下の滝つぼで泳ぐ時が来るとは想像もしていませんでしたからね。 極小の点でしかない自分、孤独な日本人はそこにいるのです。今だに、その30年前の不思議な感覚が蘇ります。「思えば遠くに行ったもの」です。そしてその出来事は、現在では「本当に遠くなった」のです。

カミサンにその話をすると、「その話はもう何十年も前から、何回も聞いている!」と愛想の無い返事が返って来ます。こっちもヘソを曲げながら、「たった30年しかたってない話なのに!」と反論すると、「フン!」と鼻で軽くあしらいます。「畳」と「何だか」は新しい方が良いと、大昔から言われてますよね。      いやはや、思えば遠くに来たもんです。

『 ・達 ・成 ・感 』 が無い。

最近、私は大した努力をしている訳でもないのに、日常生活は平穏無事に過ぎてゆきます。大きな心配事も無いし、周りとのトラブルが有る訳でもありません。こういう状況って良い状態なのでしょうか?  努力無しで得られる「平和」や「幸福感」、こういう状態は長続きしない感じがします。

自然界の揺らぎ、水面の波、小川のせせらぎ音、季節の移り変わり、砂丘の風紋、潮の満ち引き、・・・自然界は揺らぎに満ちています。周期的に繰り返すから延々と続くし、「安定」がもたらされるのです。               人生に於ける揺らぎ、それは「苦と楽」です。「苦」があるから「楽」に価値が出ます。もし「人生が楽だけ」だったなら、多分その「楽は苦に変わってしまう」でしょう。「楽」の次には「苦」が来ます。だから「楽」状態にある時、人は不安を感じるのだと思います。次には「苦」が来ると感じているからです。

近頃「達成感」を感じる事が殆どありません。ところで、「達成感」は血の滲むような「努力」をしなければ得られないはずだから、「達成感が無い」というのは言い換えれば「努力をしていない」という事になるのです。最近の私は「自分は努力不足だ!」の感を否めません。努力をして何かを成し遂げようと考えた途端に、「努力を続けたら、どんな良い事が起こるの?」そんな思いが湧き上がって来ます。若い頃はそんな風では無かったから、これも年のせいでしょうか?

何かをしようとすると、「暑い、暑い、もう嫌だ」と思う反面、「社員の皆さんはこの異常な暑さの中、文句も言わずに頑張ってくれている」そんな自分の内心からの声が「罪悪感」となって迫ってきます。こっちは冷房のある部屋の中にいるのに、向うは天然暖房の工場なのです。しかし、会社をもっと良い作業環境にしたいと思っても、「我が社のような中小企業、手の打ちようが無い」これが現実です。「大手企業、夏のボーナスが過去最高!」こんな報道はさせたくない!

努力で解決出来る限界を越えている「昨今の社会情勢」が、「少々頑張ったくらいで良くなろうなんて、甘い!甘い!」と、あざ笑わっているように思えます。自分が努力不足の感覚に陥っている原因は、単に「年のせい」だけではないかも知れません。

アメリカ 1

国土が広大な国には「真っ直ぐな道」が多い。当たり前の事です。ところで、真っ直ぐな道が見える風景と、曲がりくねった道が見える風景、あなたはどっちの風景が好きですか?

私は「真っ直ぐな道」の風景は余り好きでは有りません。変化が少なくて面白くないからです。緩く蛇行しながらどこまでも続く田ぼ道は、多くの人々が心に描く日本の原風景の一つだと思います。昔はそれらの道は大抵は「砂利道」でした。今はそれが舗装道路に変ってしまいました。私は、風景としては砂利道のまま残って欲しいのですが、そうは行きませんよね。田舎の細い道に惹かれるのも確かですが、一方で広大な大地も魅力的ですね。

ずいぶん昔の話になりますが、私が始めてアメリカに一人で行った時の事です。私のアメリカ体験、友人に連れられて、様々のアメリカ事情を教そわりながら、行った旅それが始まりでした。次がこの時の一人旅です。レンタカーを借りての、シアトルからスポーケンまでの往復でした。教わっていたアメリカについての知識が、この時の一人旅では随分役に立ちました。最初の旅でもシアトルには行きましたが、その時は、南へ向かいました。東へ向かって山越えをする旅ではありませんでした。同じ場所だったのに、シアトルの印象は全く違いました。何しろ一人ですから、助けてくれる人はいないし、僅かな知識しかないのです。レンタカーで走り始めた直後は相当緊張していました。

私は、高速道路が余り好きではないので、多くの場合旧道を行きます。シアトルから東の方向へ「ルート90」で行けば、スポーケンまで一本道です。でも、私はあえて山中のダム湖の道を遠回りして行きました。道は細かったし舗装もしてないところがかなりあったし、危ない目にも結構合ました。けれど、山中の道を走る事に私の好奇心がそそられました。最初の旅ではシリコンバレーのような乾燥地帯も走りましたし、さすがはアメリカだと思った場所がそこかしこにあったのですが、一人で走る山道は日本の「北海道や中部山岳地帯」と余り変らない感じがして、気楽な気分になっていました。「何だ、アメリカなんて日本と同じようなもんじゃないか」、そんな気分だったのですが、もう少し「異国にいる気分も欲しい」と思いつつの運転になっていました。

山中をあちらこちらで道草を食いながら何時間か走ると、いつしか緩く下る坂道が続くようになりました、曲がりくねった道を一時間も下ったでしょうか、急に、視界を遮る木々がなくなる場所に出たのです。左右に連なっていた山々が遠くに退きました。次には、そこに、大平原(大農園)が現れたのです。真っ直ぐな道が視線の届く限り伸びていました。今まで、グタグタと自分の中にわだかまっていた、「アメリカなんて日本と同じようなもんだ」と言う気分は、一気に吹っ飛びました。私が走った道は、大抵がハイウエーと平行している旧道でしたが、その場所もそうで自由に停車が出来ました。私は思わず車を止めて、そこの地面に立ちました。遠目には、ハイウエーをトラックが疾走している姿が微かに見えました。私は道路脇の地面に立ち、そこで飛び跳ねて見ました。足の裏で地面を感じ取って、「これがアメリカの大地か」と思わずつぶやいていました。そこにしゃがみ込み、地面の土を触り、手の平で地面を叩いていました。「ここはアメリカなんだ!」と、何度も再認識しました。

こんな側道を走る物好きはなかなかいません。地元の住民の生活道路ですから、車なんて滅多に通りません。遠くを走るトラックの群れが、途切れ無く動いていました。鈍い、小さな音が、地面を這うように伝わって来てました。もっと広大な地平線まで見通せる大平原は、地球上には、いやアメリカにだって、幾らでもあるでしょう。でもこの「大平原」こそ、「始めて私が感じたアメリカ」なのです。