探し物は何ですか?

♪♪ 探し物は何ですか~?、 ♪♪ 見つけにくい物ですか~?               これは、井上陽水が歌った「夢の中へ」の出だしの歌詞です。

あなたの探し物は何ですか? 簡単に見つかる物なら、熱心に探さなくたって見つかるはずだから、きっとそれは「見つけにくい物」なんでしょうね。 望遠鏡で探しても見つかりませんか?

携帯電話? 車のキー? 使い慣れたメガネ? 読みかけの本? 「さっきまでここにあったのに、いったい何処に行ったんだ!!」 置き忘れたのか? 落としたのか? どこにあるんだ?・・・よくある話です。 「きっと盗まれたに違いない」こう思うようになったら、それは「認知症の始まり」だと言われてます。 誰もそんなもの欲しがらないから、盗みはしません。盗んだってしょうがないでしょう! でも、そう思い込むのが「認知症」らしいです。

だから陽水さんが歌っている「探し物」は「こんなたぐい」では無いはずです。   それじゃ、「あなたは何を探してるんですか?」 「俺が探しているものが何かって~! それが解りゃ苦労なんかしないよ!」こんな訳の解らない事を言う人もいます。 ≪何かを探してるんだけれど、自分が何を探しているのか解らない!≫ この一見「矛盾」しているような、意味の無いような「問題」、私はこれこそが「長い人生で、最大の難問」だと思っています。

「井上揚水」作詞による「この歌の凄さ」はここにあると思います。何を探してるんだか解らないから、それは「見つけにくい」のです。きっと死ぬまで見つからないでしょう、だって「何を見つければいいんだか解らない」のだから。 結局のところ、大抵の人は一生「何か」を探し続けるのです。では、「何か」とは何なのでしょう。 この「何か」とは、「何のために生きているのか?」と言う「哲学じみた問題の答え」ではないかと、私は思っています。

この究極の難問、「答え」を探すのではなくて、「無視」をするために、人々は代案を考えます。 私が探しているものってのはネ~! 「一生の伴侶となる素晴らしい人で~ス」とか、「何でもいいから、世間の注目をあびたいので~ス。その道を探がしてま~ス」とか、「誰よりも幸せな家庭を探しま~ス。何処を探せばいいか教えて下さ~イ」とかね。 もっとも、「俺かい? 俺はそんなシチ面倒くせェ事ァ、どうだっていいんダ。毎日が面白きゃ、それでいいんサ」中にはこんな人もいるでしょうね。

「人生の道」って、どうなってるんでしょうかね?

先日、私のサイフが見つからなくなりました。 会社の中か家の中、どちらかで無くしたに違いないと思ったけれど、思い当たる場所をどんなに探しても見つかりません。現金は大して惜しくはなかったけれど、法人カード2枚、個人のカード2枚、給油カード、ETCカード、免許証、これらが無いと困るし、悪用されたら、なお困る!! 私はかなり焦りました。

カミサンに聞いても「何処で失くしたの?」と言われる始末です。「何処で失くしたのかが分れば、そこに行って拾うよ!」と言い返しましたが、記憶の限りを尽くして、状況を反芻しました。  ≫≫便所に行こうと思って、ポケットからサイフを取り出したのだが、なにも便所に行くのに財布は出さなくてもいいんだ、と気が付いた。そして何かをしたけれど、何をしたのかが解らない。≫≫  これが最後の場面です。そこまで来ると、その先の記憶は途切れてしまうのです。その場面は確かに会社の事務所の中です。だから事務所は何度も探した。でもそこには無かった。 私は「記憶のテープ」を何度も巻き戻して再生しました。でも、いつも同じ場面になると雑音が入って、画像が途切れてしまいます。

私は、頭を冷やしたその翌日、会社の事務所の同じ場所を徹底的に探しました。結局、何と「本箱と、その前に置かれてあった段ボール箱との狭い隙間」、そこの床にサイフは落ちていたのです。

私の推測ですが、 ==その時、犯人はトイレに行きたくなったので、何気なくサイフをポケットから出した。だが瞬間的に、便所に財布は持って行く必要はないのだと気が付き、本箱の棚の上に置いた。だが無意識に置いたので、棚から落ちそうな状態で置かれていた。無意識だから置いた事すら意識に残らなかった。それがチョットした加減で下に落ちた。不運にも、そこには段ボールの箱が置いてあり、細い隙間が出来ていた。サイフはその隙間に落ちたのだ。 犯人は必死で自分のサイフを探した。だが見つからない。 事件の捜査が始まり自分が疑われた、完全犯罪をしたつもりだった。現場検証で事務所のダンボール箱が全て片付けられた。 そこには犯人があれ程必死で探していた財布が、事も無げに落ちていた。サイフの中には、犯人のアリバイが崩れる根拠となる「メモ用紙」が入っていたのだ。完全犯罪にはならなかった。==  これが私が推理した「サイフ消失の謎」と、その「解き明かし」です。全く単純な仕掛けでした。  

サスペンス作家ならば、こんな些細な事を「ネタ」にして「完全犯罪が壊れてゆく台本」を書くかもしれません。

 陽水さ~ん! 私の探し物は「サイフ」でした~! 見つかりました~。

「義理」と「人情」の世界

義理と人情を秤にかけりゃ~、義理が重たい男の世界~

「高倉 健」が歌った「唐獅子牡丹」の歌詞の一節です。この歌を、私の「小学校時代からの友人」が、酒を飲んだ時によく歌ってました。酒が好きで、「酒癖が悪くて」どうしようもない奴でしたが、学校時代は級長でした。その彼が、足掛け5年前、突然亡くなってしまいました。残念で悲しい出来事でしたが、酒が遠因の脳梗塞でした。

彼は時々、夜のかなり遅い時間帯、会社帰りに酒を飲んだ足で、我が家へ、蘇我駅から自転車を引いてフラリと来ました。彼は東京の会社に通っていました。我が家には酒がない事を知っていたので、彼は持参した酒を「手酌で飲み」、ひと仕切り「くだを巻いて」から、また自転車を引いて家に帰って行くのでした。彼の背中には、「網走番外地」を連想させる「哀愁」が漂っていたような気がします。ある晩、酔って帰る時、彼は我が家の庭で石につまずきました。転んだ上に酔いが回り、立ち上がれなくなってしまったのです。私は、無理やり自転車を家に置いて行かせ、車で彼の家に送って行ったのでした。私は時々、そんな事があった彼を懐かしく思い出しては、しんみりとした気分になってしまいます。

その彼は、「網走番外地」の歌もよく歌っていました。どうして彼がこの手の歌が好きだったのかは解りません。彼は典型的な「マイホーム主義者」だったからです。それなのに、どういう訳か、任侠物」が好きだったのです。

ところで「義理と人情」はどっちが重いのでしょうかね? 「義理と人情」は「日本人特有の感性」から生まれたものなのでしょうかね? 考えてみると、昔から日本人は「人情話」が大好きだったようです。 江戸時代に「近松門左衛門」が書いたとされる「浄瑠璃や歌舞伎」は、110作品も有ったようですが、そのうちの四分の一くらいは「世話物」と言われる、「義理と人情をテーマにした作品」らしいです。

「人情」と言うのはスンナリと「我々の気持ちの中に入ってくる」気がしますが、「義理」となると「そう簡単には受け入れられない気分」になります。  それは何故でしょうか? 私は、「人情」は「人の内なる思いから沸き上がって来る感情」だと考えています。 それ対して「義理」は「人と人との関係、貸し借りの関係から生まれてくる状態」だからではないか、と考えています。   言い換えれば、「自分の意にそぐわなければ行動しなくて良い『情理』が『人情』」であり、「自分の意に反しても、状況によって行わなければならない『条理』、それが『義理』」ではないかと考えます。社会生活を営む為にはどちらの事も、大切であり必要だと思います。

任侠物映画では、時々「網走刑務所」が舞台となります。正に「網走番外地」です。私は先日、「網走監獄」に入ってきました。でも無事に出て来れました。何故なら、そこは博物館になっていたからです。

この「監獄」は明治14年に、懲役が12年以上の「重罪人」を拘禁するために、「集治監」として建てられました。発足時の囚人数1392名、その内の3割以上が無期懲役囚だったとのことです。死刑囚は含まれていなかったようです。

明治23年、明治政府は北海道の中央道路の開削工事を急ぐために、「釧路集治監」から網走に囚徒を大移動させました。当時、極東方面に台頭して来ていた「ロシア帝国」の進出を阻む対策が、政府の急務だったのです。その為に、「道路の整備」は絶対条件でした。極寒の荒野を切り拓く為に囚人達が駆り出されたのですが、その労働は過酷を極めました。どうせ「監獄から出られないまま死ぬ人間達だ」、そんな考えがあったらしいです。怪我人や栄養失調者が続出し、死者は200人以上となったとの事です。余りの過酷さに看守人まで同情しました。かなりの数の看守も死亡したそうです。網走から北見峠までの160Kmを僅か2年で開通させたらしいです。「北海道は囚人の力で開拓された」、監獄内にはそんな言葉が掲げられていました。現在は北見峠に「慰霊碑」があります。

この監獄は、非常に上手く造られていて(建造物としても優れていた)、「脱獄は不可能」と言われていました。ところが、「脱獄した囚人」がいたのです。 現在は、監獄の中で「その囚人の人形」が脱獄シーンを演じています。「脱獄囚」であるにも拘わらず、当時からその囚人は「英雄」と思われていたのです。

もしかすると、私の友人は、この囚人と二人で「杯」を交わしているかも知れません。 一緒に茶碗を叩きながら、「網走番外地」を唄っているかもしれません。 それが、「天国で」なのか「地獄で」なのか、私には判りませんがね。

 

人と人の『縁』

「袖振れ合うも多生の縁」と、昔からよく言われ来ました。

人と人との出会いは「全て」が「単なる偶然ではなく」て、深い因縁によるもの。だから、どんな小さな出会いも大切にしなければならない。これは仏教的な教えに基づいた事柄らしいです。

この際ですので、仏教の教えについて調べた事を少し書きます。
「多生」とは、六道を輪廻(りんね)して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。「多生」を「多少」と誤解している人もいるようですが、もっと意味深い事らしいです。           輪廻とは煩悩の一つであって、・天道(てんどう)・人間道(にんげんどう)・修羅道(しゅらどう)・畜生道(ちくしょうどう)・餓鬼道(がきどう)・地獄道(じごくどう) を順繰りに廻る運命みたいなものらしいです。この輪廻から開放される事を「解脱」というらしいです。

「夫婦の出会い」なんて、道を歩いていた時、「たまたま自分の足が蹴飛ばした道端の石ころ」、その「石ころを手に持ったようなもの」。昔、誰かからそんな話を聴いたので、その事をカミサンに話したら。「それじゃ、私はただの石ころだったのね!」と怒られた事がありました。

世界の人口は70億人を超えたらしいです。この地球上に現れた全人類を合計したら数百億人かも知れません。その内のたった二人が夫婦になるのですから、すごい事ですね。もっとも場合によっては、相手が複数の人だって事もあるでしょうけれどね? 何れにしたって、カップルの「組み合わせ数」を計算すれば天文学的な数です。「宝くじで7億円が当たる確立」より、「現在の相手と結ばれる確率」の方が遥かに小さいはずだから、大切にしなければと「思ってはいるものの、・・・?」、です!。

私がよく考えることの一つに、「一人の人間が、一生の間に関わる事の出来る人の数はどれ程だろうか」? があります。普通の人ならば多くて1000人、少ない人なら100人、有名人であっても一万人くらいだと思います。フェースブックなどで「友達が2000人」なんて人がいるけれど、一体「何人の事を覚えている」のでしょうかね? それって、知り合いだと言えるんですかね? 私は、自分の一生で1000人との関わりが持てれば凄い事だ、と思っています。「70億分の千」と言う事は、700万人に一人です。今あなたの隣に座っている人が700万人の中から選ばれた一人だと思ったら! 「どの出会いも本当に貴重な事なんだ」と感じます。

小人(しょうじん)は縁あっても気づかず。                  中人(ちゅうじん)は縁に気づいても、それを生かせず。
大人(たいじん)は袖すり合う縁も縁となす。

私はこの「ことわざ」をいつも意識して生きて来ました。その結果多くの大切な人と出会うことが出来ました。自分の周りにいる人の全てが縁で結ばれているのだと感じます。「自分と血縁で結ばれる事の選択」は、自分の力ではどうにもならない事ですが、「他人との縁」は自分で作れるものですから、「授かった縁」を生かすも殺すも「自分次第」です。

私は、日本だけでなく海外にも多くの友人がいますが、どの人一人をとっても、その「きっかけは極めて小さな出来事(傍から見れば取るに足らない事)」でした。その小さな出会いが、自分の人生に左右するするほどの「強い関係」になったのです。ラオスで行動出来るのもそうです。マレーシアでも、ドイツでも、アメリカでも、オーストラリアにも、考えてみれば「不思議な事」ばかりです。

やはり、「多生の縁はあるのだ」と感じます。出合った状況は、「単に袖が触れ合っただけ」かもしれませんが、もしかすると「その出会いは前世から決まっていた事」で、「人間が関知出来ない領域にある『絶対的な力』が働いている」のかも知れません。こんな風に考えると、「どんな人間関係も疎かには出来ない」そんな思いを強くさせられます。

 

『ノアの方舟』

日本は、自然災害を被る事では「世界一」ではないでしょうか? 先日の西日本の豪雨に見舞われました地域の人々に対して、「大変でしたね。早急に生活が立て直せますよう、心から祈っております。」としか言いようが有りません。こう言いますと、「お前は薄情な人間だ、もっと何とか言いようが有るだろう!」と反撃されるかも知れません。でも私は「日本国民全てが一生懸命働き、みんなが税金を納め、社会全体で復旧復興を図るしかない」と、思っています。

暑い最中、本来なら家の中で、エアコンを効かせ昼寝をていられる所なのに、スコップを持って応援に行っている多くの「ボランティアの方々の行動」に、「敬意」を感じ、「実行力の凄さ」に関心しつつニュースを見ていました。日本も捨てたものではないかもしれません。その一方で、「役所だと偽って詐欺をしようとする輩」がいます。「悪質にも程がある」と、腹立たしい気分になりました。

私は「豪雨の映像」を見ながら、「ノアの方舟伝説」の事を考えました。   何千年か昔、地上の生活が少し豊かになり人口も増えて行きました。豊かさに伴って「人々は堕落」してゆきました。神は人々の堕落した姿を見て、人類を「水」で滅ぼす事にしました。しかし地上の生き物を完全に滅ぼすのではなく、「神と共に歩んだ正しい人」であった「ノア(当時500~600歳)」とその一族だけは救おうと考え、ノアに「方舟の建設」を命じたのです。神はノアに、その方舟に「地上のあらゆる生き物」の「つがい」も共に乗せるように命じました。

ノアは神のお告げを信じ、方舟の建設を始めました。周りの人々は享楽に耽りながら、「水もない場所に舟を造っているノア」を嘲り笑いました。ノアはそれらの嘲笑を無視して方舟を造り上げました。そして地上のあらゆる生き物のつがいを載せ、一家もその方舟に乗り終えた時、神は天地を鳴動させ雨を降らせ始めたのです。「ノアが造った方舟」に「便乗」しようと、人々は我先に殺到して来ました。「神はそれらの人間を排除」しました。そして「神の手」は、その方舟の入り口を締め切りました。

その雨の激しさはどれ程だったのでしょうか? 時間当たり雨量は、100ミリの何十倍、何百倍、いや何千倍だったかも知れません。豪雨は「40昼夜」続きました。野も山も水で満たされました。世界全部が洪水、地表の全てが水に浸かりました。生き残ったのは「ノア一家」と「あらゆる生き物のつがい」だけでした。これが旧約聖書の創世記に記されている「ノアの方舟」のあらましです。

キリスト教に於いては、ノアの方舟は単なる伝説ではなくて、歴史上の事実として語られています。ノアの方舟が漂着した場所は、現在はトルコに属していますが、「アララト山」だと言われています。アララト山、標高5137m、は古くからアルメニア民族のシンボル的存在だったのですが、オスマントルコの進駐によって国境線が改められトルコ側に帰属させられました。山麓のすぐ東側はアルメニアとの国境線となっていますが、アルメニア人は入ることが出来ません。

国境線の直近には「ホル・ヴィラップ修道院」がありまして、国境線越しにアララト山が展望できます。

ところで、「方舟の木片」だと言われている「物体」が現実に存在しまして、その木片はそこから更に東方約20Kmに位置する「エチミアジン大聖堂」に、金の十字架で飾られた入れ物に「宝物」として保存されています。 どうして「ホル・ヴィラップ修道院」ではなくて、「エチミアジン大聖堂」に置かれているのか? それは解りません。

もっとも、方舟が漂着し洪水が引いて、ノア一族が地上に降りられるまで1年くらいかかったそうですし、アララト山と言っても洪水の当時はこの山は存在しなかったらしいのです。だから、実際には方舟はアララト山に漂着したのではなかった、との事です。現在、「これが方舟の痕跡」だと言われている場所は、アララト山の山頂ではなくて、近くに村があるような場所です。

我が家のカミサンの話によると、神は将来『火』によって「再度人類を滅ぼす」と、聖書の中で予告しているとのことです。神が本当にいて、実際に人類は火によって滅ぼされるのか? 滅ぼされるのはいつなのか? それは「神のみぞ知る」の範疇でしょうね。

「神がノア一族を洪水から救った」のは、彼等が「勤勉で誠実、神の教えに忠実な生活」をしていた事。それが理由です。では、次に来るであろう『火』による「人類の絶滅」から救われる為には、同じように「誠実で勤勉、実直な生活」をしている事で、神からの「絶滅予告サイン」の受信が可能かも知れません?? 

そのサインには、「『方舟』を造れとのお告げではなく、『熱線シェルター』の製造命令が入っている」かも知れません。またそのサインには、「造り方とその大きさ」が示されると同時に、救われるべき人、すなわち「助命者名簿」が、「あなただけ」に「密かに」暗示されるかも知れません?? 

ところで、あなたは一族を率いて生き残ころうと努力しますか? 

ノアは「生き残る事を目的として努力したのではなく」、単純に「無欲」で「誠実」な生き方をしていただけのノア一族を見ていた「神」が、一族を救ったのだと思うのですが!?

「霊」の話

ラオスの話は「まとも過ぎて」少し飽きて来ましたので、今回はチョット「毛色の変わったテーマ」にしようと思います。 暑いから幽霊の話? でも、ちょっと違います。

私は、若い頃から、周りの人に「俺には、よくよく良い『背後霊』が付いているようだ」と言って来ました。何度も偶然とは思えない経験をして来たので、その様に言い放って来たのです。 と言っても「背後霊とは何者か?」なんて特別に考えた訳でもないし、実のところその存在を信じてはいないのです。 単に「俺はいつも運が良んだ」と言うよりは、「俺は、何度も背後霊に助けられているんだ」と言ったほうが、「解り易い」と思っただけなのです。

先日、ネットで「背後霊」を検索して見ました。日常的に、他の人はどちらかと言えば「守護霊」と言う言葉を良く使うので、「その二者に、違いが有るのか無いのか」、確かめてみたくなったからです。ネットの中には、どんな根拠で言っているのか解らないけれど、「背後霊」と「守護霊」は全く違うものだ、と書いてありました。「守護霊」とはどんな人にも生まれた時に取り付いて、「その人を一生守る霊」であり、その人と表裏一体の関係にある。「背後霊」は沢山の霊が取りつく人も在るけれど、霊が全く取り付かない人も在って、「霊の想い」と「人の想い」が一致している時だけに取り付く。と書いてありました。通常なら「背後霊」は取り付いた人を助ける働きをするけれど、時には背後霊が「低級霊・地縛霊・動物霊」といった霊に変化して、「人が持つ悪意に同調」して取り付く場合もある。と、書いてありました。最も、この説の根拠は曖昧だから、「信じるも信じないもその人次第」と言う事でしょう。私はどちらかと言えば「信じない派」かもしれません。でも重大な局面に立たされた時、「俺には、強い背後霊がついていて、味方になってくれている」と思えば、それなりに力付けられると思います。

ところで、私のカミサンはクリスチャンですから、「俺には『背後霊』と言う味方が付いている」と言うと、「あんたが運が良いのも、健やかに暮らせるのも、私がいつも神様に祈っているからだ」と言い張ります。「教会でも牧師さんや友達が皆であんたの安全を祈ってくれている」と言います。だから「あんたが思っている『背後霊』と言うのは、実は『神様』なのです」と言っています。そのように言われてみると、そんな気もして来るのですが、「でも、俺って神様を信じてはいないんだけれど!」と言って、皆さんをがっかりさせています。

 

やはり無理だった! ラオスには「修行という習慣」が無いのかも知れない。

これまで私が記述して来たブログは、「文章が長すぎる」との指摘を友人達から何度か受けて来ました。そこで今回から短い形で投稿する事にします。

私は、ラオスの村の婦人会を中心にした組合組織をつくらせ、「内職」を行なわせて「子供達の学習教材を買う為のお金を稼ぐ計画」を実行しました。

まず問題だったのは、「ラオスの友人」が紹介してくれた婦人会は、国道沿いの村に在ったので、小さな村ですが「私が想像していた集落よりも遥かに豊かそう」に見えました。この村ならば、各家庭で子供達の教材位は楽に買えるに違いない、と感じました。

それでも最初だからやってみようと思い、私は日本で小物づくりのトレーニング用の材料(布、金具、等々)を買って持って行きました。トレーニング用なので何種類もの布や刺繍糸を用意しましたし、写真やイラストでいっぱいの手芸用の指導書も買い揃えましたが、如何せん「手荷物」なので沢山は持って行けません(それでも10Kgは優に超えた)、そればかりではなく、手芸用道具(針、糸、ハサミ、チャコペーパー、・・・)などの小物まで持って行きました。このような小物さえ持っていない家庭がある、と聞いたからです。現地で見せようと思い、パソコンに「小型バッグの作り方」のビデオも入れて行きました。

ラオスの友人に予定した村に連れて行ってもらい、私の計画を直接に「婦人会」の人達に彼の通訳を通して説明しました。彼女達は「一応」は何をすべきなのかを理解したようでした。持参したパソコンでビデオを念の為に2回見せました。

それから4,5か月後、再度同じ村に行きました。その時も同じように練習用の材料を持って行きました。私は、彼女達が行ったトレーニングの結果を見ましたが、がっかりしました。「これではとても無理だ!」と感じました。小学校の「夏休みの宿題」みたいな出来だったのです。

彼女達は、「これをあんたが買って、日本で売ってくれ」と言っているようでした。私はこれは日本では売れないから、村のマーケットで売ってみるようにと言いました。彼女達は、自分達は売る事が出来ないと言っていました。彼女たちは「変な日本人が材料を日本から持って来て、自分たちに作らせそれを買ってくれるのだ」と思っていた様です。「出来栄えなど関係ない、作りさえすれば良いのだ」と、考えているらしのです。自分たちは「下請け」だと思ったらしいのです。私は、あなた達はこれから先、自分達で事業を営む(最終的には材料の仕入れから出荷、販売管理まで)のであって、今はあなた達はその為の「修行」をしなければならない時なのだ、練習中の物は売り物にはならないのだ、と言いたかった。でも、そう言っても彼女達は理解出来そうもありませんでした。こんな方法では「自立支援など、とても無理だ!」と、私は考えました。

 

ラオス山間部の『貧しい学校』、果たして私は支援なぞ出来るのでしょうか?

前回、ラオスの人々は「生活が貧しいはず」なのに、「貧しそうには見えない」のが実情である事。 教育環境が全く未整備なのに、「子供達を何とか学校に行かせようとしている」現実がある事。 学校へ行くのに、「ノートや鉛筆」さえも買ってもらえない子供が大勢いる事。 例え日本から「教材を贈る支援」をした所で(消耗品を贈る事は一過性)根本的な支援にはならない事。 そして、「自立への支援」だけが有効な手段である事、などを記述しました。

では、「自立支援」を具体化する為には、どの様な方法策を取ればよいのでしょうか? 

私の「個人の力」などは、「取るに足らない程小さい事」は最初から解っていました。しかし、「支援する活動集団」を構築し「組織的な支援活動」をするとしたならば、「組織づくりの為のエネルギー」と「組織維持の為のエネルギー」で、自分の小さな「活動エネルギーの相当部分を使ってしまう」に違いありません。であれば、たとえ「極めて小さな自分の力」であったとしても、「自分の力」だけを頼にして、「小さな活動を、可能な範囲でした方が現実的」だと考えたのです。

私は勝手に試算しました。 山間部「一家庭の平均的な月収を8000円」だと仮定し、もし仮に収入を10%増やせば、その家庭は子供に「ノートや鉛筆」「靴や衣類」を買ってあげれるようになる。 余りにも単純な計算ですが、一家庭が一ヶ月当たり「800円」の収入増で、子供の養育費の捻出が出来る、と考えたのです。まずは「十件の家庭」を考え、その家庭に一ヵ月当たり800円~1000円増収をもたらす所からスタートしようと考えました。でも何をすれば、その額を稼ぎ出せるのでしょうか?

≫日本に昔あった「婦人会」のような組織が、ラオスのビレッジにはないのかと、ラオスの友人にメールで問いかけましたところ、「在る」との返事でした。

≫ラオスには「ラオス綿」や「ラオスシルク」などの織物を創る地域があります。またラオス山間部のある民族は、独特の草木染や刺繍がを持っている、と聞いていました。

≫しかし、その「民族特有の柄や色合い」は「日本人の好みには合いそうに無い」のです。それならば、日本人の好みそうな「色」、「柄」を取り入れたデザインを施せば、日本で売れるかもしれないと考えました。

*「ラオスの婦人会による組合組織」を作り、ラオス綿やラオスシルクに草木染を施したした布に、日本人にも好まれるようなデザインを取り入れた「独特の染色」や「刺繍」を施し、自然の素朴さを売りにした商品(ランチョンマット、ハンカチ、財布、小物入れ、ブックカバー、・・・)を、各家庭が内職で作る。それを組合としてまとめて出荷する。私は日本で宣伝し、販売を試みる。

これが、私が考えた最初のアイデアでした。私の「アイデア」を友人にメールして、ラオスの「婦人会」に問いかけてみてくれるように要請しました。結果、ある村の婦人会が「やっても良い」と答えたと、彼氏からの返信がありました。

この「アイデア」、私には上手く行くように思えました。しかし、現実はそう甘くはありませんでした。

また長くなりそうなので、その経過と結果は次回に記述します。