我が家の庭と、「子規庵」の関係

正岡子規が亡くなるまで住まったと言う家が、東京台東区の根岸にあります。その建物は「子規庵」と呼ばれています。正岡子規は明治27年からこの家に住みました。この家はずっと保存されて来たのに、戦時中、空襲でで焼けてしまいました。現在の建物は昭和27年再建されて大切に保存されて来たものです。「子規庵」は趣のある建物と庭が調和した心地よい空間となっています。ところで、「子規庵」と「我が家の庭」との間にどの様な関係が有るのか?と、問われるなら、実の所は、何の関係も有りません。

私は我が家の庭を眺める時、たびたび、子規が病の床から自分の庭を眺めていた姿を空想しました。正岡子規の「病床六尺」は日記であり絶筆でもありました。明治35年9月17日の記述が最後です。そして、9月19日に亡くなりました。彼は、<自分は外に出るどころか動くこともままならない。しかし病床から見える庭の「小さな空間」に、世界の全て、「無限の宇宙の広がり」を感じる事が出来る。>みたいに思っていたと、何かの書物に書いてありました。

子規庵よりは広いかも知れないけれど、そんなに広くも無い我が家の庭を眺めている時、私は大自然の不思議な営みを感じる事が多々あります。その時、子規も、こんな気分で病床から小さな庭を眺めていたのかな?と、思ったりします。

私は十数年前、庭に畳半分程の池を三つ作りました。「ビオトープ」を作ろうと考えたのです。子規は「へちま」を植えたらしいですが、私は我が池に、田んぼから捕まえて来た「オタマジャクシ」を入れました。たった十匹のオタマジャクシでも捕まえるのは大変でした。そこで、カエルの卵を捕って来て追加しました。結果、何百匹ものオタマジャクシが生まれました。私はカエルの合唱する声が好きでしてたので、沢山いなと大合唱が聞けないと考えました。いつかこの事を記述する機会もあろうかと思いますが、結局大合唱は聞けませんでした。

それが始まりで、その「カエル達」は代々この小さな池に卵を産んで、十何代か、子孫を繋いで来ました。水草や睡蓮を植えました、タニシや名前は知らないけれど小さな巻貝もいましたし、トンボも池から産まれ出ました。元々我が家の庭には蛇が住んでいました。冬は何処で冬眠しているのか分からないけれど、夏には出てきました。蛇は気持ちが悪いので、見るのも嫌でしたが、「蛇」にだって生きる権利はあると考えて、殺すことはしませんでした。池のカエルを狙って水面を蛇が這っていた事も、度々ありました。カミサンは叫び声を上げました。

こうして、何年かが過ぎて行ったのですが、不思議な事に、私は環境を全く変えたつもりは無いのに、毎年我が家の庭の様子、生き物の状態は変化しました。

メダカが繁栄する年もあれば、睡蓮が繁茂する事もありました。と思うと、翌年は枯れてしまって、植えなおさなければならなかったり、金魚が大きく育ったと思うと突然全滅してしまったり。素人の私にはその仕組みがさっぱり解りません。生き物達が相互に関係しあって生きているのを目の当たりにし、こんな小さな空間でも、「自然の不思議さ」を感じる日々が続いています。けれども、ついに、二年前、その命の引継ぎは切れてしまいました。池の動物が全滅してしまったのです。もう生き物を飼うのは止めにしようと思っていましたが、今年この池に「ボウフラ」が大発生したのです。そこで、つい先日、再度このビオトープを復活させる事にしようと思しい、金魚を飼い始めました。金魚を入れた事でボウフラはいなくなりました。

子規が自然を観察できる唯一の空間である「庭」、それが彼の全世界でした。「病床六尺」の中に、子規が日々、激痛の中に何とか平安を見出そうと苦闘し、少しでも創作を続けたいと言う「苦悶と熱望」が鮮明に読みとれます。