どうして「ラオス」なの?  どうして「ハーブ」なの?  続きです。

前回は、私が「長年に渡って関心を抱き続けた、『ラオス』と言う国」その国の中で、ついに「ラオス人」との「縁」が出来た話を記述しました。

でもその頃、私が知った「ラオスの人々の日常生活」は何とも「理解しがたい」ものでした。

最初に感じた事は、「異常に高い物価」でした。最初に訪れた当時(足掛け4年前)の「ラオス人の平均年収」は8万円とか9万円とかと、「統計資料」に出ていました。それなのに、普通の店で売っている「日用品の物価」は、「日本で売っている物品の値段」より「少し安い程度」でした。どうして、彼らにとってこんなにも「高い品物」を、一般の人が買うことが出来るのだろうか?    更に、確かに自動車の数は少ないし、タクシーではなくて「トクトク」と言われる乗り物ばかりが目立って、日本のように品物が溢れている世界ではないと感じましたが、ラオスの人々が非常に貧しい生活を送っている様には見えませんでした。バイクは非常に多いけれど、自転車は余り走っていませんでした。

小さい街の「レストラン」(殆どが歩道に張り出したテント屋根の下に、テーブルと椅子を置いただけの造り)での食事は、大体「一食の値段は、300円前後」でした。年収を月収に直せば、数千円の国の話ですからね。 多い人でも、月収1万円程度、そのような人々が、「一食300円の食事代金」をどうして支払えるのか? 何としても解りませんでした。

その割に、どのレストランも結構流行っていました。しかも普通の外国人観光客は、そのようなレストランで食事はしませんから(ホテルや一流のレストランが一般的)、どこの道端のレストレンでも殆どの客はラオス人でした。これはどういう事なんだ? 考えても解りません。

普通の店で物を買う時、私は「値段が非常に高い」と感じていたので、常に「値切り」ました。しかし、アジアの他の国に比べると「値引き額は僅か」だと感じたので、私がもっと値切ると、店の人は「文句があるなら買わなくてもいい!」と言っているようでした。これを聞いた時、最初のうちは「ラオス人は誇りが高い」ので、嫌な客には売らないのだ、と考えているに違いない、と私は推測しました。でも色々経験してくるうちに、そう言う理由だけではなさそうに思えて来ました。

では、何故なんでしょう?  後になって解った事ですが、私が店で買おうとしていた「日用備品、菓子、飲み物、等々」品物の殆ど全てが「輸入品」だったのです。ラオスには日用品を製造する工場が無かったのです。歯ブラシから洗剤、鍋から家電製品、全てを輸入しなければならないのです。つまり、仕入れ価格が非常に高かったので、余り値引きして売ると赤字になってしまうのです。そうであれば、普通のラオス人には日用品でさえ買う事が出来ないではないか、と思いました。現にラオスの貧しい人は、その様な日常的に使う品物でさえ滅多に買わないようでした。

そうなんです。現地の人で「生活に必要な品物を気軽に買えるのは、極めて限られた人達」だったのです。ラオス国民の平均年収は9万円かもしれないけれど、「都市部の人の年収はそれよりずっと高額」だったのです。その上、「貧富の差」は極めて大きいので、都市部には「お金持ち」が沢山いるし、中には日本の平均家庭より裕福は家もあるはずです。

と言う事情があるならば、地方の人の年収はどんなものなんでしょうか? その額は「平均値より、遥かに低い金額」になるはずです。そうなんです。収入が極めて僅かなので、「田舎の人々」や「山間部の人々」は、日用品でも思うように買う事が出来ないのです。もっとも、「買う必要がない」とも言えますけれど。

しかし、ラオスの国内で取れる品物、(野菜、果物、淡水魚、織物、石材、など)はそれなりに安価なので、例え貧しくてもそれ位ならば買えるようです。 この状況を私のような日本人が見た時、ラオス国民は「貧しいはずなのに、貧しそうに見えない」。逆に「どこか、のんびり暮らしているようだし、日常生活を結構楽しんでいるようだ」、そんな風に見えるのかも知れない、と思いました。ラオスには、色々な祭りがあるし、歌や踊りが大好きみたいで、結婚式などではすぐに踊り出します。見た目よりずっと「陽気」だと思いました。

山間部の人々は「自給自足の生活」をするので、現金収入が少なくても生きてゆけるのですが、最近は携帯電話が普及したり、バイクなどの様々な物が「生活必需品」となりつつあるので、昔の様には行きませ。でも、それらの品物が欲しくなるのは当たり前の事だと思います。

山間部の人達でも都会に出稼ぎに行けば、バイクも携帯電話も買うことが出来ます。但し、それが出来るのは、「勢いのある若者」だけです。大半の山間部の家庭では、子供達に「ノートや鉛筆」、「靴や衣類」を十分買ってやれない現実があったのです。私が小学校を見てカルチャーショックを受けたのは、そのような地域の、「厳しい現実を目の当たりにした為」だったのです。

私の想像ですが、「ラオス人の教育意欲はかなり高い」と思います。だから、子供達を無理してでも学校に行かせるのです。たまには見かける事も有りましたが、子供達が平日に「野良仕事を手伝っている姿」を殆ど見かけませんでした。「ノートも鉛筆も買ってあげられないけれど、学校には行かせたい」と親達は考えるのだと思います。どの人も教育の大切さを知ってました。

どんなに「貧しい山中」であっても学校が在るのは、その為だと思いました。 でも、学校を作るに十分な予算が無いので、雨を凌ぐだけの建物、壁が無い校舎、教科書もろくに無い、電気も来ていない、机も椅子もボロボロ、そのような学校が多いのです。ある学校では、椅子が無いので机を横に倒して椅子替わりにしていました。先生の更なる「質の向上」(でも、どの学校の先生も垢抜けしていて、教育意欲は満々に見えました)が望まれています。

この現実を前にして、最初の段階で私が考えた「支援策」は、「日本の皆さんに、ラオスの子ども達の現状を訴えて、学用品を贈る為の募金活動」をする事でした。 でも、それは「良い方法では無い事」にすぐ気がつきました。    ノートも鉛筆も消耗品です。消耗品だから使い切れば、また募金をしなければなりません。

つまり結論的には、「山間部で暮らす人々が自立」しない限り、「貧しさから抜け出す解決策は無い」という事です。こうして私の悩みは始まりました。

 

また長くなってしまいました。今回はこの辺でよかろうかい!

 

 

「ラオス」と「ハーブ」について

私が昔から「先輩諸氏」から受けてきましたアドバイスは、商品を販売する上で一番大切な事、それは、まず「品物を売ろうとする人間は、自分を買ってもらう事を考えなければならない」、そして「売り手となる自分を信頼してもらう事が一番大切だ」、という事でした。私は、全くその通りだと思いまして、これまでその助言に従ってやって来たつもりです。このブログも、まず自分の事を皆さんに知っていただこうと考えまして、スタートしたものです。

よく受ける質問は、何で「ラオス」なのか? 何で「ハーブ」なのか? というものです。私が日常的に親しくして貰っています、友人や知人達は、この点に強く疑問を感じるらしいです。

世界は十分に広いですから、「ラオスである必然性を考えにくい」し、何処の国にもその国独自の商品がありますので、何も「ハーブ(薬草)である必然性も無い」はずです。どんな国ににだってその国だけの特別な産物があります。海外事業を行うだけなら、何処の国が相手であっても良いはずだし、扱う商品は何であっても良いはずなのです。

でも、私が決めたのは、「ラオスのハーブ」なのです。それは、私が「どんな小さな縁だって大事にしなければならない」と思っている事に端を発しています。  

私は十年以上も前から、「ラオス」と言う国に関心を抱いて来ました。そのきっかけとなったのは、テレビの映像でした。十数年前の事、テレビでラオスの取材番組を見ました。そこには「ラオスの人々の素朴な生活」が映し出されていました。それを見たとき、この国は何て貧しいんだ、と思いました。でも人々は凄く穏やかで誠実そうな顔をしている、と感じました。その時の印象が頭の中に残り続けました。事業の第一線から退いた時、どうしてもラオスに行こうと考えまして出向きました。

その時は、まず学校に行こうと思いました。貧しいが故に学校では音楽教育が出来ていないだろうと考えた末、ラオスの山中の学校にハーモニカを普及させようと思って、たった2本でしたが寄付をしようと思って持って行きました。  運よく、山中の小学校へ行くチャンスを得て、訪問を果たしました。トクトクで行ったのですが、学校への途上、ボロボロの学校が有りました。でも、そこはもう使われていない校舎だと考えました。案内して貰った学校はその地域で一番良い学校だったようです。

私も粗末な英語しか出来ませんが、殆どの若い先生は英語が全くが出来ませんでした。少しだけ英語の出来る先生が一人いて、何とか「ハーモニカを上げます」、「ちょっと吹いてみてください」とやっと伝える事が出来ました。   子ども達は興味津々で大勢集まってきましたし、他の先生達も「変な日本人」が来たものだと周りを囲みました。その時は時間がなくて、小一時間ハーモニカの吹き方を教えようと試みました。でも、上手く行きませんでした。そして、一番簡単な日本の唱歌の楽譜(数字譜なので、数字の場所を吹け良い)を置いて帰ってきました。後で分ったのですが、途中で見たボロボロの学校は現在でも使われていたのです。

山中の学校では、音楽教育は全く出来ていない。私は、「思った通りだ」と感じました。でもそれは「大間違い」でした。実際には、音楽どころか教材もままならなかったのです。

縁があったと言うのでしょうか?その日に一人のラオスの人と知り合う事が出来ました。

つぎにラオスに行った時は、ハーモニカを10本持って行きました。今度は前回に縁の出来た彼氏が「ラオス山中のもっと貧しい場所」を案内してくれました。貧しい事は解っていたけれど、想像以上でした。カルチャーショックを受けました。その学校の先生に日本から持参したハーモニカを贈りました。

子ども達には「飴」をあげました。その学校は電気が来ていませんでしたし、ハーモニカなんて見た事が無いようでした。学校では時間がなかったので、ラオスの彼氏がその先生の家に「夜」連れて行ってくれました。先生の家は学校から歩いて1時間ほどのビレッジにありました。先生はバイクで通勤らしいです。家には電気も来ていました。そこで先生にハーモニカの吹き方を教えようとしました。しかし全く駄目でした。「ド、レ、ミ、ファ」が解らないのです。彼の学校は生徒が30人位で、先生は一人です。その先生がドレミファを知らなかったのです。開け放しの玄関ですから、先生の家の近所の人が、「変な日本人」を見に来たので、数人でドレミファを練習しようとしました。余り長居も出来ないので1時間ほど練習しましたが、どうしても「ドレミファ」までで、「ソラシド」、まで行きませんでした。

翌日、ラオスの彼がもっと山中、奥の方にある学校に連れて行ってくれました。ウドムサイ県には、山間部を援助する政府の出先機関が有りました。その組織が山間部の集落に「フランス」から届いた援助物資を届ける為に出向くと言うので、その車に便乗させてもらったのです。何しろ道路が悪くて4WD車でないと行けないのです。凄い道でした。石がゴロゴロ、水溜りはある、路肩は悪い。不謹慎かも知れないけれど、私はその様な「荒れている場所」が大好きなので、ワクワクしていました。

尾根に沿った山中の道を3、4時間走ったでしょうか?でも走行距離は数十キロしか無いと思われます。その間に学校が数校あったと思います。その内の5校か6校を訪問したと思います。どの学校も生徒数は100名前後です。先生は多くて3、4人、少ない所は2名くらいです。その学校に、突然変な日本人が訪ねて行ったですから、先生も戸惑っていましたが、それは一時の事で、20歳を過ぎたばかりの先生は丁寧に対応してくれました。勿論英語は全く解らないので、会話は出来ません。友人となったラオスの彼氏が、ラオス語の通訳をしてくれました。相変わらず「土産」は日本から持って行った「僅かばかりの飴」でした。ハーモニカは重いのでそんなには持って行けません。最も持って行ったところで何の役にも立たない事が解りました。 必要なものは、「ノート」と「鉛筆」だったのです。ところで、こんな山中でも「貧富」の差がありまして、ある子供は靴を履いてノートも鉛筆も持っているのに、ある子供は裸足でノートも鉛筆も持っていないのです。

夜も昼間も、「ラオスの彼氏」と沢山話をしました。「どうすれば貧しい子どもを支援出来るか」です。ラオスの北部地域は、山また山で、農地も十分ではありません。電気も道路も不十分、インフラがまるでなっていません。何から何まで「無い無いずくし」です。一体どうすれば良いのでしょうか? ため息が出てしまいました。つまり、ハーモニカどころの騒ぎではなかったのです。

私は自分の考えが、余りにも甘かった事に気がつきました。ラオスについての知識の浅さ、人々の生活についての理解も非常に不正確だった事、徐々に判明して来ました。

このブログ余りに長くなったので、「今回はこの辺で、よかろうかい!」

 

我が家の庭と、「子規庵」の関係

正岡子規が亡くなるまで住まったと言う家が、東京台東区の根岸にあります。その建物は「子規庵」と呼ばれています。正岡子規は明治27年からこの家に住みました。この家はずっと保存されて来たのに、戦時中、空襲でで焼けてしまいました。現在の建物は昭和27年再建されて大切に保存されて来たものです。「子規庵」は趣のある建物と庭が調和した心地よい空間となっています。ところで、「子規庵」と「我が家の庭」との間にどの様な関係が有るのか?と、問われるなら、実の所は、何の関係も有りません。

私は我が家の庭を眺める時、たびたび、子規が病の床から自分の庭を眺めていた姿を空想しました。正岡子規の「病床六尺」は日記であり絶筆でもありました。明治35年9月17日の記述が最後です。そして、9月19日に亡くなりました。彼は、<自分は外に出るどころか動くこともままならない。しかし病床から見える庭の「小さな空間」に、世界の全て、「無限の宇宙の広がり」を感じる事が出来る。>みたいに思っていたと、何かの書物に書いてありました。

子規庵よりは広いかも知れないけれど、そんなに広くも無い我が家の庭を眺めている時、私は大自然の不思議な営みを感じる事が多々あります。その時、子規も、こんな気分で病床から小さな庭を眺めていたのかな?と、思ったりします。

私は十数年前、庭に畳半分程の池を三つ作りました。「ビオトープ」を作ろうと考えたのです。子規は「へちま」を植えたらしいですが、私は我が池に、田んぼから捕まえて来た「オタマジャクシ」を入れました。たった十匹のオタマジャクシでも捕まえるのは大変でした。そこで、カエルの卵を捕って来て追加しました。結果、何百匹ものオタマジャクシが生まれました。私はカエルの合唱する声が好きでしてたので、沢山いなと大合唱が聞けないと考えました。いつかこの事を記述する機会もあろうかと思いますが、結局大合唱は聞けませんでした。

それが始まりで、その「カエル達」は代々この小さな池に卵を産んで、十何代か、子孫を繋いで来ました。水草や睡蓮を植えました、タニシや名前は知らないけれど小さな巻貝もいましたし、トンボも池から産まれ出ました。元々我が家の庭には蛇が住んでいました。冬は何処で冬眠しているのか分からないけれど、夏には出てきました。蛇は気持ちが悪いので、見るのも嫌でしたが、「蛇」にだって生きる権利はあると考えて、殺すことはしませんでした。池のカエルを狙って水面を蛇が這っていた事も、度々ありました。カミサンは叫び声を上げました。

こうして、何年かが過ぎて行ったのですが、不思議な事に、私は環境を全く変えたつもりは無いのに、毎年我が家の庭の様子、生き物の状態は変化しました。

メダカが繁栄する年もあれば、睡蓮が繁茂する事もありました。と思うと、翌年は枯れてしまって、植えなおさなければならなかったり、金魚が大きく育ったと思うと突然全滅してしまったり。素人の私にはその仕組みがさっぱり解りません。生き物達が相互に関係しあって生きているのを目の当たりにし、こんな小さな空間でも、「自然の不思議さ」を感じる日々が続いています。けれども、ついに、二年前、その命の引継ぎは切れてしまいました。池の動物が全滅してしまったのです。もう生き物を飼うのは止めにしようと思っていましたが、今年この池に「ボウフラ」が大発生したのです。そこで、つい先日、再度このビオトープを復活させる事にしようと思しい、金魚を飼い始めました。金魚を入れた事でボウフラはいなくなりました。

子規が自然を観察できる唯一の空間である「庭」、それが彼の全世界でした。「病床六尺」の中に、子規が日々、激痛の中に何とか平安を見出そうと苦闘し、少しでも創作を続けたいと言う「苦悶と熱望」が鮮明に読みとれます。

我が家の 『犬』 は、「歌舞伎揚げ」が好きだった、のお話。

「過去を懐かしむのは愚かな事だ、未来を見つめよう。」 若い頃こんな言葉を良く耳にしました。 でも本当に、過去を懐かしんでも何も起こらないのでしょうか? 未来を見据える事だけが「希望への道」なのでしょうか?

我が家の裏庭に、40センチ程の三角形をした石が置いてあります。その石を置いてから、かれこれ15年くらいにはなりましょうか? その「石」は我が家で飼っていた「犬の墓石」なのです。

犬が死んだ時、私は自分で棺を作りその中に、「我が家の家族写真」、「サラミソーセージ」、「歌舞伎揚げ」を入れて、犬と一緒に埋めました。

庭でその石を見る度に、「棺を作った時の光景」がありありと思い浮かびます。 私は「親や身内」の葬儀に際して「写真」や「思い出の品」を棺に入れても、「故人があの世で、それらの品を見ている姿」を想像する事ができません。  それなのに不思議な事ですが、「犬があの世で、家族と一緒にいる自分の写真」を見ながら、「昔の平穏な時代を懐かしんでいる」そんな姿が想像出来るのです。第一私は「あの世」を信じてないし、犬だって写真を理解出来るはずはないのです。でも私は、犬があの世にいる気分になるのです。その理由、良くはわからないけれど、もしかすると「犬を火葬にしなかったから?」、その為かも知れません。

我が家の犬は、「優遇」されませんでした。いつも粗末な餌しか与えられませんでしたし、芸は何も仕込まなかったので、いわゆる「バカ犬」でした。但し、近所迷惑を省みず、ほぼ「鎖を放した状態」で飼いました。私は、犬を自由に生きさせてあげたかったのです。「貧乏臭い」板の小屋が犬の住まいでした。ある日の事、その小屋を移動しようとした時です。犬は「自分の家」を持って行かれると思ったのでしょうか、如何にも悲しげな顔で、訴えるようにこちらを見ていた姿が印象に残っています。10才を過ぎた位の頃からでしょうか、「チョット老犬になったな」と、感じ始めた頃です。少し肥満気味になったので、カミサンは粗末な餌を更に減らしました。食事を一日一回にしたのです。そのたった一回の食事をあげるのを忘れる事がありました。すると、廊下を歩くカミサンに、縁の下から「自分の餌入れ」をカラカラと鳴らして、「夕飯を忘れてるよ!」、と言わんばかりに知らせたそうです。可哀相な事をしたものです。

私は「歌舞伎上げ」が好きでよく食べましたが、犬も好きでよく一緒に食べました。「サラミソーセージ」が大好物で、それを上げると夢中になって、噛まずに一気に飲み込むのでした。

犬がいつも食べていたのは「残飯」だったから、会社へ連れてゆくと、「会社で飼っていた犬」が「まずくて食べ残してあった餌」を、「我が家の犬」は「目の色を変えて、ガツガツと食べた」のです。それを見た社員が大笑いをしました。

14才を越えると、眼が白内障になって白く濁ってきました。歯も抜け出しましたし、黒い毛にはかなり白髪も混じってきました。

私が旅行に行く前の日、「犬」は座敷の掃き出しの敷居に、若かった頃のように前足を掛けて立ち上がろうとしました。でも、力が足りず立てなかったのです。軒下で力なく吼えていました。撫でてあげたら、嬉しそうに尾を振ってました。

その旅行に行った先で、私は何気なく土産物店の店内に掲げられた「般若心経」の「額」を読んでいました。その時です、カミサンから「今、犬が死んだ」と電話が来たのです。遠く離れてはいたけれど、私が経を読んでいる中で犬は死んだのです。何とも不思議な偶然を感じました。 前の日に撫でたのが最後となったのです。 犬は死ぬとき「ワ~ン」と一声だけ悲しそうに吼えたと、カミサンが話ていました。 それが、お別れの挨拶だったのでしょうかね?

旅行から帰った翌日、板で棺を作り、犬の体の上に「拡大した家族の写真」を置きました。それから裏庭に穴を掘り、線香を焚いて、丁寧に埋めました。子供達も立ち会いました。父親は寺に行って塔婆を書いてもらい、墓石の脇に立てたました。当時は、屋外で飼われていた犬が15才を越えるのは、かなり長生きな方だったらしいです。

カミサンとは、「粗食にして飼ったから長生きが出来たんだ。その甲斐があったね。」と話しをしてはいましたが、「もっと良い物を食わせて上げれば良かった」と、後悔をしました。 その後も、散歩に行く度に「可哀相だったね」と、その話をしました。

それからは、我が家で新たな犬を飼ったことは有りません。

 

『不寛容社会』

今回は、少し「シリアスな事柄」を取り上げたいと思います。

最近は、新聞でもテレビでも、「様々な不祥事」や「問題の発覚」がニュースになる事が、非常に多くなったように感じます。内容的には確かに「取り上げられた側に非がある」とは思いますが、どこか変だと思いませんか? 余りにも「細かい事まで追求している」と感じませんか? トゲトゲしさを感じるのです。 新聞、ラジオ、テレビ、いわゆるマスコミって「人を裁く事が使命」なのでしょうか? もっと言えば、マスコミは「人を裁く権利」を持っているのでしょうか?

 ≪子供が殺され、捜査線上に容疑者が上がった。そして捕らえられた。≫ そんなニュースを聞けば、私だって、犯人の姿を見てみたいと思うし、犯人を憎いと感じます。多くの場合、容疑者が真犯人である可能性は高いでしょうが、冤罪の可能性だってあります。だからこそ注意が必要です。事件を興味本位だけで「伝えてしまう事」、「見てしまう事」、には問題があると思います。どんな事にも「読み違い」という過ちがあります。やはり注意が必要だと思いませんか? 

特に目に障るのは、「公務員の不祥事」、「政治家の失言」、「企業の不正問題」、「有名人のスキャンダル」、・・・こう言う事になると、いわゆる「リポーター」とか「キャスター」とか「評論家」と言われる人物が登場して、あたかも「正義の味方」のような顔をして、解説を交えながら喋りまくることです。結果として、マスコミは容疑者に対し「社会的制裁」を加えているのです。  それを見聞きした視聴者や購読者の多くが、その解説を「真実だと思い込む」のではないでしょうか? 「集団による裁き」=「リンチ」の可能性、その確率はかなり高いと思われます。 リポーターやキャスター、評論家は、いつ人を裁く権利を得たのでしょかね? 公衆の面前で、何の権利も資格も無い人物が、人を裁いて収入を得ているなんて、まるで「何んか?」みたいです。

「非常に些細な事」までがニュースで取り上げられる、これが最近の傾向のように思います。いちいちニュースに取り上げなくても、「警察や司法に任せれば済む」事にまで、「偉そうな、正義の味方のお顔」が登場して解説するのです。「あんただって、叩けばホコリが出るんじゃないの?」と、私は言いたい。

私は、こんな社会の傾向を「良くない」と思うのです。つまり、「人を裁く事」が日常化し、「相手の些細なミス」まで「非常に強く責め立てる風潮」が出来てしまった、と思うからです。

世の中には、「権利だ!、俺には権利があるんだ!、人の権利を侵すな!」と騒ぎ立てる人がいます。 一方では「自由だ!、俺の自由だ!、俺の自由を侵害するな!」、と騒ぎ立てる人がいます。 その人に、あんた権利ばかりを言ってるけど、「自分の義務」を忘れてるんじゃないの? あんた「相手の自由」を侵してまでも「自分の自由」を主張する気かい? と私は言いたい。

とは言いましても、私いや私ばかりでなく、どんな人でも、自分が意識していない所で、世の中に対して「何がしかの迷惑を掛けている」はずです。そして世の中はそれを「許容」してくれている場合が、実に多いと思います。だから私は、自分が人から受けた「多少の迷惑」は大目に見る必要がある、と思っています。

「不寛容な社会」は「住みにくい」と思いませんか? 幸い、この道路は毎朝、隣家のおじいさんが掃除してくれます。有難いです。私も掃きますけどね。