「栃ノ心」の生まれた国、 『 ジョージア(グルジア) 』 の事。

最近、「栃ノ心」が大関に昇進しまして話題になっていますが、「栃ノ心」の出身国の「ジョージア」に久しぶりに戻って、記述します。ジョージアって何処?と思われる方も多いと思いますのでグーグルの地図を載せます。

「栃ノ心」はジョージアの首都「トビリシ」の北方約20Kmに位置する「ムツヘタ」と言う人口7200人程の小さな町で生まれたらしいです。ここは二つの川が合流する美しい町で、味わいのある「古い形式の教会堂」が幾つかあります。

「栃ノ心」の事はテレビの会見でしか知りませんが、真面目で素朴な好感の持てる若者という感じでした。ジョージアの人々は、皆さん穏やかで平和を愛する人々の印象を受けました。

宗教はキリスト教で「グルジア正教徒」が約85%でイスラム教徒が約10%ですので、主だった町には円錐形の屋根を持つ独特の教会堂があります。そして多くの教会堂が世界遺産に指定されています。

「ムツヘタ」から山間部の谷合の道を北方に高度を上げながら、ロシア国境近くまで行くと、3000mを超える美しい高山地帯になります。その地域に、以前紹介しましたゲルゲティ三位一体教会があります。

この三位一体教会の事を後で調べました所、前の投稿、中身に「勘違い」があった事に気がつきました。この教会堂への車道は無いと記述しましたが、この教会堂へは、山の裏側を巻くようにして車道が有りまして、車で行けるようです。 訂正して、お詫び致します。

以前「栃ノ心」が幕内優勝した時の記者会見で、「ジョージアの日本大使」が同席して、今年はグルジア独立100周年の記念すべき年に当たると話していましたが、実際の所はロシア革命後の1918年にグルジア民主共和国として、ロシアからの独立を宣言しました。が、しかし、1921年にロシア軍の侵攻よって首都を制圧され、国が崩壊させられてしまいました。そしてその時から、ソ連によって、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」と改名されました。それから数十年後の1990年にソ連は崩壊しました。その後で改めて、「グルジア共和国」として再度独立宣言を行ったのです。 それから、2015年4月に日本語表記を「ジョージア国」と改めました。だから、最初の独立宣言から百年です。

気候は、東西方向に横たわる5000m級のコーカサス山脈が、ロシアから来る冷気を遮るので比較的温暖です。コーカサス山脈南側に広がる、黒海からアゼルバイジャン国境までの平野部では、古くからブドウが栽培されていまして、「ぶどう酒発生の地」とも言われているそうです。すご~く良いところです。

 

「人生を二回も生きる?」  その不可能に挑戦する!!

太古から、二度以上の人生を送った人はいないでしょう。いるはずは有りません。  「そんな当たり前で馬鹿げた事は言わないでよ!」と思うのは当然ですが、私はその馬鹿げた事に挑戦をしています。勿論、物理的に二度生きようと言うのでは有りません。

以前、私は「終活」はしないと宣言しましたが、「終活」って「一度目の人生を、途中でトーンダウンしてしまう事」、つまり「一度目の人生を短くしてしまう事」だとも思っています。

どうやって「二度目の人生」を生み出すのか? それは、「一種の妄想」とも言えますが、「想念の世界を、新規に、意識の中に創り上げる」のです。         難しく書きましたが、簡単に言えば「頭の中だけの架空の世界」を、「実際に体験しつつある世界」として感じ取るのです。

私は若い頃から「実体験と疑似体験の区別が曖昧になる時」が何度も有りました。 「疑似体験」とは、「夢で見た事」「映画やテレビで見た事柄」「ニュースで知った事」「人から聞いた話」「本や雑誌で読んだ物語」「写真集で見た世界」などの、自分が「実際には体験してはいない事を、臨場感を感じつつ体得する事」を言います。その「疑似体験」と「自分の実体験」とが混ざってしまって、その境目がわからなくなってしまうのです。

 

とすれば、「自分の記憶」に「疑似体験」を混ぜ、それに関連した「証拠」になるような「物」なり「写真」なりがあれば、それは「実体験した事と同じ結果になる」のでは?と思います。 小説の主人公に「徹底してなり切る」のです。

小説「マディソン郡の橋」の中で、主人公「フランチェスカ」は年老いてから、毎年一回、一日だけの儀式(その日は化粧をし着飾って、何十年も昔の、ロバートとのたった四日間の思い出に浸る事)を繰り返して、「自分が生きて来た証し」としました。「マディソン郡の橋」の事は、4月18日に掲載しました。

 

この話は小説に過ぎませんが、フランチェスカと似たような行動、言い換えれば、「自分の生きてきた証拠を再度確認する行為」をきちんと行えば、その作業をしている間は「あたかもその時代を、もう一度生きているかように感じ取れる」、と思うのです。

最近、私は「かなり長い時間」を使って、「過去の出来事を整理しつつ、再度の確認」を行っています。すると不思議な事に、あたかも二回目の人生を送っているように感じる事が、出来るのです。

 

 

[人生を沢山生きる]って、どんな意味なんでしょうか?

「人生を沢山生きる」、解ったような解らないような言い回しですが、「長生きをする事」とは少し意味合いが違います。「一生懸命に生きる」のとも少し違いますし、「豊かに生きる」のとも少し違いますので、やはり「沢山生きる」としか言えない感覚です。                           一番近い意味合いの言葉は、「欲張って生きる」かもしれません。昔から私が勝手に使って来た言い回しです。

ところで私は、「人生の要素」について、時々考えます。

<生まれてから死ぬまでが人生>だとすれば、先ず「人生の時間」が出てきます。

次に、<何処に住むか、何処に行くか、自分の動く範囲はどうなのか>と考えると、「行動範囲」があります。

 

その次は<どんな人と接して生きるか>を考えると、「人との関わり様」があります。それに関連して、周りの人と<どれ程深く関わって生きるか>で「関わりの深さ」が有ります。 

その次は<何をして生きるか>が出てきますが、それは「行動の中身」です。

そして<何を考えて生きるか>となって、「思想、信条の持ち様」があります。

それから<何を楽しみとして生きるか>がありますが、それは「生き甲斐の有り様」とも言えます。

最後に、人生には<楽しみと苦しみ>が付きものですので、「苦楽の程度」があります、でもこれは「楽」から「苦」を引き算して決めます。

結局「人生の量」とは、「これら全ての項目の掛け算」になると考えています。  けれども、各項目が持っている「重要度」は人によって異なるので、それぞれの項目にその人なりの「係数」を入れなければなりません。

「人生の量」とは「個人単独」で決まるものですから、「他人とその大小を比較しても何の意味も無い」です。

私が思っている「人生を沢山生きる」と言うのは、他人と比較してどうこうではありません。「自分自身が、なるだけ沢山生きるにはどうするか?」と言うことでして、その為に「各項目をどの様に増やして行けば良いか」を考えるのです。

「人生の量」=「人生の時間」*「行動範囲」*「人との関わり数」*「関わりの深さ」*「行動の中身」*「思想、信条の持ち様」*「生き甲斐の有り様」*、「苦楽の程度」  ~~~  これが私の「人生の量の方程式」です。

「理屈でしかない」と思う人は大勢いるでしょうが、こうして人生を分解して考えると、「自分が、沢山生きるにはどの様にすれば良いか」が見えて来ます。

あなたは「終活」について、どう思いますか?

昨今、「終活」なる言葉が「巷で結構とり上げられる」ようになりました。   新聞に、「中尾彬夫妻」著による「終活夫婦」なんて本の「広告」が載っていました。「人生の後半戦を愉しむためのバイブル誕生!」なんてキャッチフレーズも書いてありました。何かつまらない事を言ってるものだと、私は感じました。「終活」と言うのは、簡単に言えば「自分の身辺整理をする事」だと解釈しています。つまり、生きているうちに、自分の身の回りにある雑多な物や事柄を、整理したり処分したりする事のようです。自分が死んだ後、残された人達が困らないように、「自分に関わる事の始末」をどうするか予め決めておけば、後はスッキリと生きて行けるから、残りの人生を、「自由」に且つ「安心」して過ごせる、そんな事だと思います。この考え方に対する皆さんの対応はそれぞれでしょうが、私はこの「終活」なるものを行おうとは思っていません。

人間、「何時死ぬか解らない」ので、身辺整理をしておかないと残された人達が苦労をする。それが発想の原点でしょうし、賛成意見も多数あるでしょう。  しかし、逆に「何時まで生きるのか解らない」のに、早めに身辺整理をしてどうなる!と、私は考えるのです。

世界中で、死んだあとどうなるのかを考えて様々な宗教が生まれました。

「死」と言う難題は、何千年も昔から人間にとりまして、最も重要な「命題」でした。

宗教的にはどうか解りませんが、私は「死を克服した人は一人もいない」と思っています。「悟り」や「解脱」、「救い」とか「昇天」とか、「極楽浄土」とか「天国」とか「地獄」とか、色んな言葉が死を乗り越える為に使われて来ました。でも、どうなんでしょうね??

私は「死んだ後の事より、生きている現在の方が大事」でして、「日々をどの様に過ごして生きるのか」を優先して考えようと思っています。

だから、「終活」をしている時間があったら「現活」をしようと考えます。  過去の事を考えるより、未来の事を考えた方が「前向き」だ、と言う話も良く聞きますが、私は「ある程度の年齢」になったら「過去の出来事を思い出す」のは非常に「有意義」だと考えています。「暗い未来」の話も、「明るい過去」の話も、どちらも「観念の世界の有様」に変わりありません。だから、「暗い未来を想像」するよりも、「明るかった過去の郷愁に浸る」方が、遥かに健康的だと思います。

私はこの歳になって幾つかの「新しい事」を始めました。正に「終活の反対の事を実践する作業」です。その結果、益々「自分にからみ付く荷物」が増えて来ています。そうすると、多分「後に残された人達」は「私がやり散らかした事」の「後始末」に苦労する事になるでしょう。でも一人の人間の一生に関わる事だから、少々手間が掛かっても、それは大目に見てもらう事にしようと決めています。

どなたも、閉店準備をしている店に行ったことがあると思います。あなたは、閉店作業をしている店に行って、「快さ」や「魅力」を感じますか? まだ「営業時間中」にもかかわらず、「後片付け」をせっせとやっているのですよ!                        「生きているうちに死んだ後の準備をする『終活』」とは、そのようなものだと思うので、私は「終活をしない事」に決めているのです。

 

もしかして、若いころの私って、女だったかも知れない!?

私、どうかしら?

世の中は日々移ろい行くものですね。                    ある種の「魚」は、環境によって「オス」になったり「メス」になったり変化するそうですが、人間は「もう少し高等」だから環境によって変化するのでは無くて、気分によって変わりたいですね。その時の気分によって、「男」になったり「女」になったりしたら、人生が変化に富んで面白くなるかも知れません。  「今日は天気が良いから、男で過ごそう!」とか、「雨の日は、シットリと女になろう!」とかね。でも、気分で「性」変わってしまうと困ることの方が多いかもしれません。朝起きたら自分のカミさんが男になっていたなんて事になったら困ります。もっと困るのは、自分の彼女が、夕方まで女だったのに夜になったら男に変わちゃった。こうなったら本当に「目も当てられない」でしょう。

ところで、「男」から「女」に「変身したつもり」になると、不思議な事が起こります。化けている事は、「自分でも判っている」し、「周りも判っている」はずなのに、「ただの遊び」だった事が、知らない間に「現実味」を帯びて来るのです。化けている時には、周りにいる男性の「こちらを見る視線」が、何処となく「野獣の気配」を醸し始めるのを感じます。それに対して、こちらも「仕草を、白うさぎのように従順」にしなければならないと、そんな気分になって来ます。これは、ちょっと「危ない現象」だと判断しなければなりませんよね。

このような過程を経て、私は「女」になりました。

そんな、こんなで、私は「変身」が「癖になりそう」になったから、早く足を洗う事を決心しました。

何とか「男っぽい」写真を探しましたが、格好の良い写真がありませんでした。 

ところで、「男らしい」とはどんな事を言うのでしょうか? 異論も多数あるでしょうが、私が最も「男を感じる形」それは、命を張って最前線に行った「兵士」の姿です。

人間と人間が殺しあうのが戦争です。戦争はどんな事があっても、避けなければなりません。「兵隊」が戦争を始めたのではありません。彼らは最も悲惨な犠牲者です。どこの国の軍隊だって、兵隊は身を挺して戦って来ました。     でも、結果は悲惨なものです。敵を殺さなければ、自分が殺されるのだから。

戦時中、遺書は色々と残されました。しかし喜んで特攻した人はいないはずです。特攻隊員が「突っ込む」のは、使命感からなのか? 命令に従がう為か? それは解りません。でも、確かな事は、自分が全く知らない「敵」を殺す為に、自分を犠牲にして来た事です。もう、「兵隊さんは格好が良い」なんて軽々しく言えません。でも彼等は本当に「男らしい」と思います。

「命を賭けている彼等の姿」と比べたら、これは随分と「軽い姿」ですね。