ラオスへの最初の一歩を踏み出す。   タイ国境の町からラオス、ファイサーイへ陸路で入国。

今回は「マレーシア」からいきなり「ラオス」へ飛んでみたいと思います。      このブログ、前回はマレーシアでの「木工事業の話」がスタートした話でした。その直後なのですが、この時点であえて私は,「ラオスに始めて行った頃の話」をしようと思います。 何故ならば、「マレーシアでの木工事業の苦労話」と「ラオスでのハーブ事業の苦労話」を平行して進めれば、両者の「目的の違い」がはっきりして、私の言いたい事が解り易くなるのでは?と、思えるからです。

マレーシアの話のスタートは「約30年前」、ラオスの話のスタートは「足掛け4年前」ですから、両者の間には約25年(四半世紀)の時間ズレ(タイムラグ)があります。この「二つの時代」と「二つの国」を同時にまたいで、「行きつ戻りつ」しようと思いますので、混乱が生じるかもしれません。でもここに記述している内容は、「個人の偏見と独断レベルの話」ですから少々の事は大目に見てください。

 あらゆる「人間」の、「四十代を生きている時代」と「七十代を生きている時代」とでは、「体力」「活力」「気力」「価値観」等々の点で大きく異なります。また、あらゆる「国家」は、「30年間と言う時代の経過」によって、「国情を激変させられる」はずです。

 私が、これから行おうとしている作業は、この凄まじい強さで転換させられた「二つの要素」を、平行して眺めつつ、「比較しようとする試み」です。

国境の街、タイ、チェンコン付近の寺院です。「タイの北東部」と「ラオスの北西部」はメコン川を国境として並存していますが、ラオス側の「ラオ族」とタイ側の「タイ族」は同じ民族で、ラオ族はタイ族の一部に入るらしいです(ラオスには十以上の少数民族が居住している)。ですから、タイ語とラオス語は非常に似ていて方言の違い程度しかないらしいです。タイの「チェンコン」とラオスの「ファイサーイ」はメコン川に架かる友好橋によって結ばれています。友好橋を渡っての国境越えは「特別のバス」に乗り換えなければなりません。

タイ側では出国手続き、バスで橋を渡り、ラオス側で入国手続きをします。

30年前、私が最初にマレーシアに行った時はマレーシアの友人に案内をして貰いました。ラオスに入国した4年前は、タイに居住していた友人と一緒でした。

ラオスへ入った時の印象は、「静かで、人が少ない」でした。タイでは人々の動きが活発で、「油断できない」と感じていたのですが、ラオスは安心感をもてました。30年前のマレーシアのクアラルンプールも、人の動きは忙しそうでした。人々は大らかそうでしたし、全く危険を感じませんでした。       ラオスの人達は、スローモーションビデオのようにゆったり動く感じですが、「のんびりしている」ようには見えませんでした。私の眼に映るラオスの人々は「もの憂げで、必死で生きている」そんな姿でした。

 現在のマレーシアは最早先進国ですが、30年前は車も建物も古めかしくて、日本から見たら「相当遅れている感じ」でした。それなのに、人々は活発に動き回っているように見えました。恐らくマレーシアは赤道直下、暑さが陽気にさせていたのでしょうか?                 

最初のマレーシアで印象に残ったのは、「物価が安い」事でした。日本円はマレーシアでは「日本で使う数倍の価値」があるように感じました。自分が金持ちになった気分になったものです。 

 ところが、ラオスでは全く事情が違いました。事前に調べた結果では、ラオス人の平均収入は日本人の収入の  20分の1 ~ 30分の1 程度でした。だから、物価は「もの凄く安い」だろうと考えていました。ところが「店で売っている商品の値段」は日本より「多少安い程度」だったのです。恐らく「現在のマレーシア」よりもかなり高いのではないでしょうか?  だから、「30年前のマレーシア」と比較したら、「現在のラオス」のほうが「10倍以上物価が高い」のではないでしょうか?

私がラオスに行きたかった第一の理由は、「ラオスは貧しい国」だと思っていたからです。ところが、物価は「現在のタイ」よりも「現在のマレーシア」よりも高いのですから、「貧しそうな国」には見えませんでした。           それが国境の入管から離れるに従って、貧しさを感じさせる風景に段々と変化してゆきました。

収入が日本の20分の1なのに、物価は日本より少し安い程度、「ラオスってどうなってるんだ?」、私は混乱してきました。

考えた末に解った答えの一つは、この町「ファイサーイ」はラオスでも非常に豊かな地域ではないか?という事でした。豊かさをもたらしたのは「大きな観光収入」ではないか?という事です。もう一つの理由は、貧富の差が非常に大きいと言う事です。「平均の収入は非常に低く」ても、中には相当高収入の人がいるのです。金持ちなら、この高い商品を平気で買う事が出来るはずです。

 最初の一歩踏み入れたこの時点では、自分がラオスに深く関わり、事業をする事になるとは想像もしていませんでした。私がラオスに行った理由のひとつは、「貧しい人達の為に、自分が少しくらい役に立てるかも知れない?」そう思っていただけなのですから。そして、それが「ハーブティーの事業」になるとは夢にも思ってませんでした。 だって、私はラオスに良質のハーブがある事すら知らなかったのです。 それに対して、マレーシアに行った時は、最初から「マレーシアの木材」を意識し、「何とか木工に関連した事業が出来ないものか?」と考えていたのです。

 

 

 

 

当時、私は未熟者で、怖いもの知らずでした。   時間を約30年前のマレーシアに巻き戻します。

 今回はカスピ海からグルジアに行く予定をしていました。           でも友人から、そもそもどうして、アジア・ウッド・ジャパンは「マレーシアでの木工事業から、ラオスのハーブティー事業に行ったのか?その説明が必要だ!」、と言う指摘を受けました。 そこでしばらくの間、時間を頂きましてマレーシアに通い始めた頃の様子を書きます。

 木工事業の会社、「アジア・ウッド・ジャパン」の正式な設立は1991年8月です。正確には「91-8-16」です。私は、敢えてこの日を会社設立の日にしました。この日、91-8-16 は特別な日でして、上下にひっくり返しても同じ日付になるのです。このような日付は「100年間」でも数日しかありません。 つまりひっくり返らない日付、倒産しない日付、という事でこの日と決めました。マレーシアに最初に行ったのは会社設立より二年程前のことです。

当時、マレーシアの田舎では日本人は珍しくて、子供達は興味津々で私を見ていました。村はずれで、一緒に写真撮る?呼びかけに大勢の子供が出てきました。

私は、子供達に「日本式のジャンケン」を教えたり、数字の数え方を教えたりして遊びました。所が、その場所は警察官住宅が並んでいた場所だったのです。      こちらはそんな事を全く知らず、ただ子供達と遊びたかっただけなのに、「不審な人物がいる」と思われて警察官が二人出て来たのです。身振り手振りで怪しい者ではないと説明し、やっと無罪放免となった事を思い出しました。

マレーシアの友人の友人が材木の伐採業をしていて、熱帯雨林の山に連れて行ってくれました(正確には原生林では無いので、ジャングルとは言えない)。

彼らはマレーシアの少数山岳民族「サカイ族」の人達です。彼らも若いけれど私も四十そこそこ!若いが故に、怖い物知らず、向こう見ず、「未熟者」でした。

マレーシアで「木工事業」をやりたい、それだけの情熱で行ったのは良いのですが、「木材を使って何をやれば良いのか?」、皆目見当が付きませんでした。              ともかく木材の原産地を見たい、と友人に頼んで「製材所廻り」をしました。 主にマレー半島の北東部の村々(時には山中)にある製材所を尋ね歩きました。    十箇所以上は行ったと思います。

こうして、一、二年が経過しました。そして行き着いたのが、「南洋材を使って、屋外家具(ベンチや椅子や遊具)を作る事業をやる」、だったのです。     まずは私自身が「デザインと設計をした図面」を基に、それを加工してくれる会社を探す事から始めました。しかし、「コンテナ単位の仕事ならするが、少量の生産はしない」、そんな会社ばかりでした。それならば、先方の会社が「企画、デザイン、製造をした製品」の中で、「自分の抱くイメージと一致する商品」を探し出し、それを日本に輸入しようと考えました。 そして、とうとう良い商品を見つけました。それをコンテナ(一杯分の木工家具)で輸入しました。   でも、それは全然売れませんでした。と言うより、商品は良いはずなのに、「売り方が解らなかった」のです。結果として25年も経過した今でも、我が社の倉庫に眠っています。やはり「大量の商品」は手に負えない、「少量の手作り製品でなければ駄目」だ、との結論に至りました。その為には「製品の企画とデザイン、設計」を「自分の手」でしなければならない、と考えました。                           それには、まず材料となる樹種を決めなくてはならない。 生産用の木工機械を揃えなければならない。 宣伝はどうする? 販売方法はどうする? 販路の獲得は大丈夫か? 難問が山積しました。                  ちょっと考えただけで、「ハードルは100以上」有りました。       私は、このハードルを一つ一つ乗り越える決心をしたのです。 その中で最大の関門は「工場」でした。工場はマレーシア国内に作らなければならないのです。  現地の社員はどうする? 工場の管理は大丈夫か? 工場用地はどうする? 工場の建屋はどうする? 機械の配置は? 怪我への対応、保険は? 現地法人は? 輸出入の作業は? 水は? 電気は? クレームへの対処は?  材料と製品の運搬は? 住まいは何処にする? 計画の日程管理、工程管理は? 人事管理は? 経理は? 資金繰りは?  もう頭の中は「満タン状態」でした。

このようにして、「私の木工事業」、「苦難の道」が始まりました。      が、それは今度の機会に書く事にします。

 

春ウラウラ、人々ウキウキ、太陽ピカピカ、水面キラキラ、  外国語ではこんな表現出来ないですよね。 

日常目にする周囲状況を、「繰り返し音の形」で表す言葉の事を、「擬態語」と言うらしいですね。「日本語」だけが持つ優れた特徴だと思います。ガヤガヤ、ワサワサ、ドヤドヤ、ギュウギュウ、 このニュアンスが解る外国人は少ないでしょう。このような言葉を「日常的」にしかも流暢に使って、互いに同じ情景を想像出来るのですから、日本語は素晴らしい「言語」だと思います。外国語にも「擬音語」はあるかもしれませんが、日本語のように豊富では無いと思います。         それじゃ、ボチボチ話を進めて見ましょうか。

麗らかな春の陽光の下で、私はクシャミが止まらず、鼻も詰まってしまったので、「吐息式呼吸法」を試みました。でもたった40秒間しか継続出来なくて、「口呼吸」に切り替えました。この日、私は春の公園を散策していたのです。     日本人て本当に「桜が好き民族」なんだ、と実感しました。公園への道すがら、街の中には至る所に桜が植えられていて、何処も彼処も満開でした。     公園の桜も負けじと満開でした

集まった人々は顔を緩め、大らかな気分で桜を眺めていました。 

でも、花より団子が良いのは世の常でしょうか?

キャアキャア走り回る子供たちを尻目に、 いいんだ! ボクチャンは一人でいるのが、好きだもん。

何を勘違いしたのか?  記念写真を撮ってたら、「邪魔になっちゃだめよ!」と、一人の子が言う。 と、もう一人の子が、「ネエおばちゃん! おばちゃんてモデル?」 こちらは思わず噴出しそうになりながら、「違うよ!だだのおばちゃんだよ!」と答える。 「おばあちゃん」と、言わなかったのは見栄を張った証拠。

「それじゃねえ!」「おねえちゃんたち、モデルになってよ!」。        二人の子は恥ずかしそうにカメラの前に立って、Vサイン。 「可愛いね!」

桜ばかり見ていたら、眼が違う色を欲しがって来ました。

たまには、ひがな一日をのんびり過ごすのも良いものでした。

 

 

 

 

 

春、百花が花粉を伴ってやって来ました。     美しい風景の中で、苦しい日々を送っています。

花粉にやられました。そこで、一週間書き込みを停止しました。          その間、我が家の庭でも、周辺の樹々でも、春は足踏みをしていませんでした。

私は三十数年来の花粉症です。かなり重症でした。数年前まで、この季節に屋外に出る事を極端に嫌っていました。だから春はただ苦しいだけの季節でした。 花見に行く時も厚いマスク姿でした。そこで、なるだけ息は吸わないように、出来れば、息は吐くだけにする呼吸の修行を日々行って来まして、ついに空気を吸わない呼吸法、「吐息気式呼吸法」を編み出しました。と言うのは嘘です。  が、長年の苦労が結実して、ついに花粉症を克服したと思いきや、今年は例年になく大変です。でも薬を飲めば屋外にマスク無しで出られるレベルまで改善しましたから、まずは我が家周辺の写真を載せようと、近辺を歩き回りました。

私は条件の悪い状況下で写真を撮る事が好きでして、今年の桜の写真撮影は、夕暮れ近い時間帯を選びました。  「どんよりと淀んだ空気感」、「薄い赤味の掛かった紺色の世界」、そのような雰囲気の写真を撮りたいのですが、さすがは人間の眼は優秀でして、私のカメラの眼ではどうしてもそれが写りません。      何百枚も撮っているのに満足出来る写真が出来ないのです。プロのカメラマンはそれを写すのですから、凄いと思います。