どんな出来事だって「一度きり」です。それは当前の事なのですが、日常茶飯事をこんな意識で見ると、自分が見ている当たり前の光景に「尊さ」を感じます。
ずっと昔の事です。まだ学生だった頃、蒸気機関車の頃、汽車の窓から外の景色を見ていました。丁度今頃の季節です。汽車は田園の中を走っていて、所々で田植えをしていました。 日本の何処でも見られる、ごく普通の景色でした。 私はその時、突然「不思議な感覚」に襲われました。
昔だから、田植えの「機械」など有りません。線路脇で田植えをしている「その人達」は、数秒もせず後ろへと飛び去って行きました。でも5分もしないうちに、また同じ田植えをする「別の人」が現れ、瞬く間に飛び去って行きました。私は、この季節、何処へ行っても田植えをしているけど、「どこの田植えも同じだな」と思いました。 が、その瞬間です。「待てよ! 同じ様に見えるけれど、人は同じではないし、同じ物なんて一つも無い」と、そう思ったのです。 「あの瞬間、この瞬間、似てはいるけど、別物だ!」そんな意識を持ち始めました。そしたら、それまで何でもなく見送っていた「景色」、消え去るがまましていた「光景」、それが勿体なくなって来ました。「その瞬間に、その場所で、その人が、その形で」唯一の田植えをしている。これは「絶対に、二度と見る事が出来ない光景なのだ!」と、感じてしまったのです。
ギリシャの港、ただの日常の平凡な一コマ。私は、こんなつまらない写真も撮ってしまいます。「外国」だから?それもあるかも知れないけれど、この平凡な光景だって、「二度と見る事が来ない」そんな思いがシャッターを切らせました。
今年の我が家、庭の桃の花です。去年も同じように咲きました。恐らく写真で比べたら、その違いは判らないでしょう、でも時は「一年違う」のです。木の年輪は一つ多いし、私の歳も一つ多い、近所に住む人達だって入れ替わっています。
たいていの日曜日、我が家ではこうして茶を飲みます。去年も一昨年も同じように「お茶」をしました。どっちを向いたって、「去年」、「一昨年」、と「今年」を比べれば同じ風景です。ただ人物だけは確実に老けています。そして、いつかは、「居間だけが残る事になる」でしょう。
どの写真も去年と同じに見えます。しかし全てが「さっきの瞬間」とは異なっているはずです。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・・」 正に「方丈記の世界」です。