戦争の村から、リゾートの村へ

ベトナム戦争は、ベトナムだけが戦場だったのではありません。            

ラオスは1953年のフランスからの独立後、約20年に及ぶ内戦が続きました。左派「パテート・ラーオ」と「ラオス王国政府」による争いでした。   その政治闘争の中、北ベトナム軍はラオスへの介入を続けました。ジュネーブ協定で、連合軍はベトナム軍をラオスから退かせるよう働きかけを続けましたが、「ハノイ政府」や「ラオスにいた共産主義勢力」はラオスから手を引く事はありませんでした。北ベトナムはラオス北部地方で、「左派」のパテート・ラーオを援助したため、内戦は激しさを増しました。                    アメリカはこの地域への直接介入を避けながら北ベトナムを抑える為に、ラオスの山岳部族(ラオス・モン族)からなるゲリラ組織(約3000人)に訓練を実施しました。

対立は拡大し、「アメリカ空軍、タイ、王立ラオス空軍勢力」対、「ベトナム人民軍、南ベトナム解放民族戦線、パテート・ラーオ軍勢力、隣の共産主義国(中国)」との戦いになりました。

この中、北ベトナム軍は「兵站路」として「ホーチミンルート」を築いたのです。ホーチミンルートの多くはラオス国内を通っていました。この地域が乾季(10月~3月)に入ると、北ベトナムはホーチミンルートを通って多くの部隊と兵器を南方に送りました。北ベトナムなどの共産勢力が次第に勢力を強めつつも、膠着状態が続いていました。

地上攻撃を行わない方針だったアメリカは、ついに「空爆の開始」を決断しました。こうして「大義の無いベトナム戦争」は泥沼化して行きました。     ホーチミンルートがあった地域のラオスは「空爆の対象」でした。同時に、ラオス国内で「北ベトナムが支配する地域」も空爆の対象になりました。      データーがどこまで正しいかは分かりませんが、米軍機はラオス国内を数十万回空爆し、約200万トンの爆発物が投下されたそうです。爆発物の殆どは「ナパーム弾」と「対人クラスター爆弾」でした。クラスター爆弾と言うのは大型容器に多数の子爆弾を搭載し、子爆弾が破裂すると沢山の鋭利な小片を飛び散らす残酷な兵器です(2010年、この爆弾の禁止条約が批准された)。投下弾のうち3割が不発弾で、それが地雷と同様の効果を持ったので、戦後、その処理に長い年月と多額の費用が必要でした。

そして時代は約50年下り、現在のラオスとなります。

ここは、ラオスの北部、首都ビエンチャンから北方へ約150Kmの町「バンビエン」です。この滑走路から米軍機が空爆に飛び立ちました。ここは米軍の基地だったから、空爆は無かったはずです。現在は国道に沿った、ただの細長くて荒れた広場です。不発弾?で作ったモニュメントがあちこちにありました。   この地域は風光明媚で、ラオスでも指折りのリゾート地域となりました。

この川は浅くて流れは穏やか、水は澄んでいるので多くの観光客が観光用小型ボートで水辺の風景を楽しんでいます。

国道に平行して、一本入った道には「マッサージ屋さん」が立ち並んでいました。「疲れた人?」はここで体をリフレッシュするのも良いかもね?        でもちょっと入ると、もうそこはラオスそのものです。

ラオスも最初から平和な国だったわけでは無かったし、現在も平和そうには見えるけれど、平和ではないかもしれません。