郷に入らば郷に従え、何時も抱いている信条。 マレーシアが馴染みの地となる。

30年前、私が初めて降り立ったマレーシアの空港は、「スバン国際空港」です。クアラルンプール中心街から北西方向に約15Kmに位置する小さな空港でした。滑走路の向こう側には、赤く錆びたトタン屋根の格納庫が見えていました。それは軍用機の格納庫でした。その前には、あまり大きくない双発のプロペラ機が駐機していたと思いますが、記憶が定かではありません。                  空港を出ると、むせ返るような湿気を帯びた熱気、そして独特の匂いがする空気が立ち込めていました。空港の前には広場のような駐車場とバスの停留所があって、そこにいるどのタクシーの屋根も、どのバスの屋根も、そのペンキは黒ネズミ色や赤ネズミ色に変色し艶を無くしていました。熱帯の日差しと強烈な雨に晒されて来た為でしょうか? でもそれらの古ぼけた車は、強い日射の下で忙しそうに走り回っていました。 この光景が私の記憶に残っている、マレーシアで第一歩を踏み出した時の画像です。この異国の世界と自分との間に、どんな関係が生まれるのか? その時は全く分かりませんでした。残念ながら、その時の写真は行方不明です。どこかにあるはずですが、余りに大量の写真に紛れてしまっています。 最初の一歩以来、「自分はこのマレーシアで、木工に関連した事業の可能性を見出すのだ」と言う感覚は、私の意識から抜けた事は一度もありませんでした。当時は本業である「高圧ガス関連の事業」の先行きに不安があったのです。現に業界全体が不景気の中にありました。「早く何かの手を打たなければならない」と焦り、「どんな事でもする」と切実な使命感に駆られていました。

マレーシア国内で「見た風景」「見た物」、全てが珍しくて新鮮でした。

何度かマレーシアに通う内に、パハン州の「ラウブ」と言う町が私にとっての拠点となりました。 そこの「レストハウス」と言う(日本で言えば国民宿舎)宿が常宿になりました。当時は一部屋、一泊素泊まりで ¥800 でした。しかし、時々停電がありましたし、電気の貯湯式シャワーは時々故障で水しか出ない時もあったし、壁にはヤモリが沢山這ったりしていました。便所兼シャワー室には大きめの水槽が置いてあって、水を貯めて手桶で体を流すのが普通でした。入っているのは、桶の底が見えない程に濁った水でした。建物はイギリスの統治時代に作られた古い木造です。 これらの話は今から30年前の事です。 現在は建物本体はそのままですが、外装も内装も設備も改修されていまして、予約しなければ泊まれないらしいです。現在の価格は ¥6,000 前後に上がったらしいです。

レストハウスのすぐ下がバスセンターで、タクシーやバスはここから乗れました。こんな形で滞在している間に、ラウブの町に知り合いが結構出来ました。 町中を散歩している時に、声を掛けてくれるような友人も出来ました。

この写真の真ん中の人はとても親切でした。ある日、町中を歩いていたらこの人がバイクで通りかかりました。ちょっと話をした後しばらくすると、この人がヘルメットを持ってまた現れました。ヘルメットを被ってバイクの後ろに乗るように言われました。ラウブの町を案内してくれると言うのです。相乗りで2、3時間走ったと思います。今ではその縁も切れてしまいましたが、30年間忘れられない思い出となりました。 製材所廻りと同時に、木工所廻りも随分しました。

木工所を見学する度に、こんな機械設備をする事が自分にも出来るだろうか?  羨ましいと同時に先行きの「資本投下」が恐ろしくなりました。しかしそれ以前に、自分はこう言う設備で何を作れば良いのだ? そちらの方が大問題でした。

マレー半島の東部を北方に行くと「コタバル」、タイとの国境になります。国境は小さな橋で結ばれています。国境を越えるには、パスポート見せそこにスタンプが押されるだけです。こんな小さな川だから、簡単に渡れます。現に橋の下では小さなボートが行き来していました。だから「国境破り」は日常茶飯事でしょう。しかし、マレーシアの男衆にとっては、このスタンプが重要だったらしいです。 国境の北側、タイの入り口の街には沢山の「マッサージ屋」さんがあって、「マッサージの料金」はマレーシア側の半分以下だそうでした。この事は「公然の秘密」でして、マレーシアの男衆は時々通ったらしいです。だから男衆は、「パスポートは絶対に奥さんには見せない!」と言っていました。

でも私の頭は木工事業の事で目一杯、とてもそんな余裕はありませんでした。

ナンマイダブ、ナンマイダブ、ナンマイダブ。