「夢」のお話。

昨晩変な夢を見ました。夢だからすぐ忘れてしまいますので、他の事は後回しにして、忘れないうちに「夢の事」を記述してしまいます。

夢って形が歪んでいるのでしょうかね?私は、色が夢の中では変わってしまっているのを結構感じますが、形はぼんやりとしていて、「上下」も「左右」も無いし、「奥行き」だって無いように思われます。 

昨晩の夢の事ですが、多分公園だと思いますが、そこへ毎日通う人がいました。それが男か女か判らないいし、多分年寄りだと思われるけれど、それも判りません。何の為に公園に通うのかも分からないのです。その年寄りのような人を、遠くから見ている人がいました。毎日その人を遠くから見ていたのです。ストーカーでは無くて、遠くから見ているだけなのです。通り掛かりの人にあの、「公園にいる人」を「見ている人」は何をしているのか?と、聞いたら、あの人は公園にいる人を「見守っている」のだというのです。公園の人が倒れた時に助ける為にいる、「見守り隊」だと言うのです。そんな「変わった隊」なんてあったかと疑問に思うと、その路上にいた人が、自分は「見守り隊」の人が倒れたら助ける為にいる「見守り隊の、見守り隊」だと言うのです。そして、あんたは私を見守る為の「見守り隊」になれ、と言っていたので、それも悪くないな、と思いました。そして、その人を見守る人間になろうと思ったところで、目が覚めました。何だそれだけか?と思うでしょうが、それだけです。                               どうしてそんな夢を見たのか考えました。

この夢を写真にするのはかなり難しいです。 さあ、どうしましょう!?。   この人の写真を撮る人の写真を、私は撮りました。

この人が撮った写真はこれです。

この写真を撮っている人を撮っている私を、誰か写真に撮ったとすれば「同じパターン」になります。が、今ここで、取り上げたいのはそんな事はありません。

重要なのは、これからの世の中、「見守り隊の為の、見守り隊」が必要になりそうだ、と言う事です。つまり「老・老、介護」の事です。介護する人を介護しなければならない世の中になりつつあります。子供が歳をとったな、と思うたびに、自分が老化した事を意識してしまいます。自分の介護が必要とならないよう、何とか「自分の老化現象を遅らさなければならない」と思いました。私は意識の中に常にこの事が埋まっています。「ハーブのティーバッグ」を作ろうと思った「大きな理由の一つ」は、これでした。つまり、きっかけになった大きな理由は、「ラオスの貧しい人々の為に、少しでも自分が役に立てれば良い」でしたが、私は「ハーブティー」が「単に飲む人の嗜好を満足すれば良い」、とは全く考えて来ませんでした。西洋医学の治療を十分に受けられない地域では、薬草に頼るしか無くて、昔から薬草を煎じて飲んで来ました。薬草は劇的な効果を期待出来ませんが、長期間常用しても問題が無い事は現地の人々を見れば分かります。それに、確かに効果があるから、大昔から飲まれてきたのだと思います。      私の願いは、皆さんの老化を少しでも遅らせる事です。

ところが困った事に、まだ私のホームページは未完成でして、私のハーブの「御注文を頂く仕組み」が未だ整っていません。(Amazonで注文下されました方、本当に申し訳け御座いません。先方のシステム上の問題で、私の所には注文された方の情報が全く入って来ません。何方から注文を頂いたのか、商品の送り先さえも判らない状況です。)間もなく、それらの問題を解決できますので、あと少しお待ちをお願い致します。ご迷惑をお掛けしまして、本当にすみませんです。

なぜ、このような夢を見たのか考えた結果ですが、私は今年度、町内会長の役目を果たす番が回ってきました。先日、近所の公園の「清掃ボランティア」の人と話しました。彼女は高齢ですがしっかりした方で、公園はグループがきちんと見守るし、彼女がそのグループを「責任をもって見守る」と言ってくれました。私は、その方々を見守るのが自分の役割だと考えていたのですが、その事と日常の自分の想いとが重なって、夢に出て来たのでしょう。

 

 

「石の文化」と「木の文化」。 西欧の建築物がハイカラなのに、東洋の建物は何とも垢抜けしない。  

日本に限らず、水田のある「稲作文化圏の風景」には何となく「湿り気」を感じるし、「茶褐色の世界」、そんな空間をイメージします。建物は周囲の景色に溶け込むような感じで、その外形線ははっきりしません。               それに比べると「西欧の風景」は乾いていて白っぽく、建物はシルエットラインがくっきりし、「切り絵」のように周囲から浮き上がって見えます。

好みの問題でしょうが、西欧の建築物は「見た目」には綺麗で良いのですが、住み心地はどうでしょう?「石の床に直に寝る」のは余り快適とは言えませんが、板の床や畳など「植物由来の床に横たわる」のは、結構気分が良いものだと感じます。 こう言う私は、自分を「古いタイプの人間」だと思っています。

湯上りに、タオル地のガウンを着て、白い壁の洋間、そこのソファーにゆったりと座って、ワインを味わいコーヒーを飲む。これは至福の時かもしれません。             私は湯上りに、浴衣を着て畳の部屋で胡坐をかく。そして障子越しに庭を眺め、ぼんやりと「茶」を飲む。茶菓子は「梅干」。そんな生活を楽しみたいです。

異論がある人が大勢いるでしょうが、私は、これこそが「石の文化」と「木の文化」の違いではないかと思います。「現代の日本社会」は合理的な洋風文化、「洋風化」が進んでいます。それに対し、ちょっと不便で不合理な「和の文化」が廃れつつあります。そんな事をいうと、古き良き時代を懐かしむ「懐古趣味」に過ぎないと子供達にバカにされますが、それでも頑固を貫き通して行こうと、常々考えています。

ところで、例えヨーロッパの国々であっても、同じ石の文化の中にあると言っても、「近代的な都市」は西欧圏全体から見れば僅かで、ちょとした街は「旧市街地、新市街地」に分離がなされています。小さなレンガ造りの家に住んでいる人々が大勢います。恐らくは地勢上の理由で、良い木材が得られないから、石やレンガで家を造るしかないのだと思いますが、西欧の人々こそ「古い物、伝統的な物」を大事にしている(大切にせざるを得ない)と思います。ドイツでは古い建物を「尊い」と考え、新築物件よりも高値で取引されるらしいです。但し、築400年を越えない建物は、古い建築物とは言わないとのことです。日本は「新しい物を追いかける人々」が多くて、「古い物」が「軽ろんじられ過ぎている」のではないでしょうか?

カラオケですか? ソリャ~、何てったって「昭和歌謡」でしょう!!     「三橋美智也に春日八郎」、「小畑実にディック・ミネ」「並木路子、菅原都々子、近江俊郎に岡晴夫」、イヤイヤきりが無いです。「田端義夫に灰田勝彦に藤山一朗、」それから、大事な人を忘れてました。「美空ひばりに三波春夫、鶴田浩二」それと、「石原裕次郎」です。

ソリャ~、何てったって「石」よりも木」のほうが良いでしょう~!!

あらゆる出来事が、全ての瞬間が、・・・ 行く川を流れる「水」のように、同じ繰り返しを二度する事はありません。

どんな出来事だって「一度きり」です。それは当前の事なのですが、日常茶飯事をこんな意識で見ると、自分が見ている当たり前の光景に「尊さ」を感じます。                               

ずっと昔の事です。まだ学生だった頃、蒸気機関車の頃、汽車の窓から外の景色を見ていました。丁度今頃の季節です。汽車は田園の中を走っていて、所々で田植えをしていました。 日本の何処でも見られる、ごく普通の景色でした。                私はその時、突然「不思議な感覚」に襲われました。    

昔だから、田植えの「機械」など有りません。線路脇で田植えをしている「その人達」は、数秒もせず後ろへと飛び去って行きました。でも5分もしないうちに、また同じ田植えをする「別の人」が現れ、瞬く間に飛び去って行きました。私は、この季節、何処へ行っても田植えをしているけど、「どこの田植えも同じだな」と思いました。 が、その瞬間です。「待てよ! 同じ様に見えるけれど、人は同じではないし、同じ物なんて一つも無い」と、そう思ったのです。             「あの瞬間、この瞬間、似てはいるけど、別物だ!」そんな意識を持ち始めました。そしたら、それまで何でもなく見送っていた「景色」、消え去るがまましていた「光景」、それが勿体なくなって来ました。「その瞬間に、その場所で、その人が、その形で」唯一の田植えをしている。これは「絶対に、二度と見る事が出来ない光景なのだ!」と、感じてしまったのです。

ギリシャの港、ただの日常の平凡な一コマ。私は、こんなつまらない写真も撮ってしまいます。「外国」だから?それもあるかも知れないけれど、この平凡な光景だって、「二度と見る事が来ない」そんな思いがシャッターを切らせました。

今年の我が家、庭の桃の花です。去年も同じように咲きました。恐らく写真で比べたら、その違いは判らないでしょう、でも時は「一年違う」のです。木の年輪は一つ多いし、私の歳も一つ多い、近所に住む人達だって入れ替わっています。

たいていの日曜日、我が家ではこうして茶を飲みます。去年も一昨年も同じように「お茶」をしました。どっちを向いたって、「去年」、「一昨年」、と「今年」を比べれば同じ風景です。ただ人物だけは確実に老けています。そして、いつかは、「居間だけが残る事になる」でしょう。

どの写真も去年と同じに見えます。しかし全てが「さっきの瞬間」とは異なっているはずです。  

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・・・」     正に「方丈記の世界」です。

戦争の村から、リゾートの村へ

ベトナム戦争は、ベトナムだけが戦場だったのではありません。            

ラオスは1953年のフランスからの独立後、約20年に及ぶ内戦が続きました。左派「パテート・ラーオ」と「ラオス王国政府」による争いでした。   その政治闘争の中、北ベトナム軍はラオスへの介入を続けました。ジュネーブ協定で、連合軍はベトナム軍をラオスから退かせるよう働きかけを続けましたが、「ハノイ政府」や「ラオスにいた共産主義勢力」はラオスから手を引く事はありませんでした。北ベトナムはラオス北部地方で、「左派」のパテート・ラーオを援助したため、内戦は激しさを増しました。                    アメリカはこの地域への直接介入を避けながら北ベトナムを抑える為に、ラオスの山岳部族(ラオス・モン族)からなるゲリラ組織(約3000人)に訓練を実施しました。

対立は拡大し、「アメリカ空軍、タイ、王立ラオス空軍勢力」対、「ベトナム人民軍、南ベトナム解放民族戦線、パテート・ラーオ軍勢力、隣の共産主義国(中国)」との戦いになりました。

この中、北ベトナム軍は「兵站路」として「ホーチミンルート」を築いたのです。ホーチミンルートの多くはラオス国内を通っていました。この地域が乾季(10月~3月)に入ると、北ベトナムはホーチミンルートを通って多くの部隊と兵器を南方に送りました。北ベトナムなどの共産勢力が次第に勢力を強めつつも、膠着状態が続いていました。

地上攻撃を行わない方針だったアメリカは、ついに「空爆の開始」を決断しました。こうして「大義の無いベトナム戦争」は泥沼化して行きました。     ホーチミンルートがあった地域のラオスは「空爆の対象」でした。同時に、ラオス国内で「北ベトナムが支配する地域」も空爆の対象になりました。      データーがどこまで正しいかは分かりませんが、米軍機はラオス国内を数十万回空爆し、約200万トンの爆発物が投下されたそうです。爆発物の殆どは「ナパーム弾」と「対人クラスター爆弾」でした。クラスター爆弾と言うのは大型容器に多数の子爆弾を搭載し、子爆弾が破裂すると沢山の鋭利な小片を飛び散らす残酷な兵器です(2010年、この爆弾の禁止条約が批准された)。投下弾のうち3割が不発弾で、それが地雷と同様の効果を持ったので、戦後、その処理に長い年月と多額の費用が必要でした。

そして時代は約50年下り、現在のラオスとなります。

ここは、ラオスの北部、首都ビエンチャンから北方へ約150Kmの町「バンビエン」です。この滑走路から米軍機が空爆に飛び立ちました。ここは米軍の基地だったから、空爆は無かったはずです。現在は国道に沿った、ただの細長くて荒れた広場です。不発弾?で作ったモニュメントがあちこちにありました。   この地域は風光明媚で、ラオスでも指折りのリゾート地域となりました。

この川は浅くて流れは穏やか、水は澄んでいるので多くの観光客が観光用小型ボートで水辺の風景を楽しんでいます。

国道に平行して、一本入った道には「マッサージ屋さん」が立ち並んでいました。「疲れた人?」はここで体をリフレッシュするのも良いかもね?        でもちょっと入ると、もうそこはラオスそのものです。

ラオスも最初から平和な国だったわけでは無かったし、現在も平和そうには見えるけれど、平和ではないかもしれません。

 

 

 

 

戦争と平和、 そしてソ連の 名機 「ミグ21」 を開発した人物。      

「甘くて切ない話」から一転して、今回は「戦争」と「平和」がテーマです。 

私は平和主義者ですが、血の気が多くて闘争的な面を持っています。「落ちてくる火の粉は、振り払わなければならない」、これが私の主義です。                 技術屋を50年もやってきましたから、大昔から戦闘機には強い興味を抱いて来ました。戦闘機に対して、日本刀と同様に「美しさ」さえ感じます。       戦闘機は戦争の道具だし、戦争とは人間どうしが殺し合う行為だから、「戦闘機は最も洗練された、人殺しの道具」であり、「最も憎むべき存在」のはずです。         それなのに多くの人々が航空ショーに行って、戦争の道具を大喜びで眺めます。          それは、どうしてでしょうね?    

アゼルバイジャンの西、「アルメニア」の北部で、ジョージア(旧グルジア)との国境に近い位置に小さな街、「ハフバット」があります。         ソ連時代は「鉄のカーテン」で隠されていた所で、昔は自由主義の世界にとって「未知の場所」だったかもしれません。

ここは小さな平和な町です。そこに「ミコヤン ミュージアム」があります。  ソ連の政治家だった「アナスタス・ミコヤン」は有名な政治家で、「ミコヤン」の名前は結構知られていますが、ここのミュージアムは「アルチョム・ミコヤン」に関わる記念館です。この二人は兄弟で、この「ハフバット」で生まれました。アルメニア人にとって、「ミコヤン兄弟」は今でも誇り高い存在なのです。   「ミグ」はソ連を代表する戦闘機として有名ですが、「アルチョム・ミコヤン」の「ミ」と、「ミハイル・グレービッチ」の「グ」を、繋げて出来た名前らしいです。その中でも特に「ミグ21」が最も多く生産され1万機も作られました。

この戦闘機は共産圏の多くの国でライセンス生産された「名機」らしいですが、ベトナム戦争では、米軍のファントム戦闘機(F4)と空中戦をしました。  この戦闘は、「世界で最初」の「超音速戦闘機」どうしの戦いだったそうです。  ベトナム戦争で「ミグ21」は「F4ファントム」を、「37機」撃墜しました。けれど、ミグ21はファントムに「66機」撃墜されたので、完全にミグの負けでした。しかしミグ21は「マッハ2」で飛び、開発された当時は世界最高水準でした。主翼が「三角翼」で尾翼が「後退翼」の変わった形をしています。

この「ブリキの塊」が「マッハ2」で飛んだのだから驚きです。ファントムによって多数撃墜されたのは、ミグに搭載されていた「空対空ミサイル」の命中精度が悪くて、米機の「サイドワインダーミサイル」の射程内に入って、「30ミリ機関砲」で戦ったそうです。いくら優秀な戦闘機でも、ミサイルに対しては歯が立たなかったようです。だから「ミコヤン」は今でも、この土地の英雄です。

「戦争の話」はこれ位にして、「平和の話」に移ります。

この町には世界遺産の「ハフバット修道院」があります。他にも同じく世界遺産の「サナヒン修道院」などもあって、昔からとても信仰深い人々が住んでいたようです。

私は、「国家」としての、または「体制」としての、「ソ連」も「ロシア」も嫌いです。でも、その土地に住む人々には好感を抱きます。            人々はどこに行っても同じで、皆んなが「真剣」に、そして「助け合って」生きています。中には悪い人もいるでしょうが、殆どの人は素朴で親切です。

オヤ! ここにも「素朴な感じの人物」がいました。

この人達、「幸せ」みたいですね。

 

 

 

 

マディソン郡の橋

若い人は知らないかも知れませんが、今から20年くらい前、「マディソン郡の橋」と言う「小説」がベストセラーになり、「映画」も大ヒットしました。          ある、アイオワ州のマディソン郡に住む「平凡な女性」が、たった「4日間の出来事」を何十年も思い出の中に留め、一年に一回だけその記憶が事実だった事を確かめる「自分だけの儀式」を「死ぬまで」続けました。年老いた彼女にとって、その日だけは、彼女の彼氏との「短くても深かった恋」の思い出に浸る「特別な日」でした。彼女が亡くなった時、遺品を調べていた家族がその「小箱」を見つけました。小箱の中には大切に油紙に包まれた、「古いカメラ」と「写真」、そして一枚の紙切れとペンダント、が入っていました。                               映画は、女性の葬式のシーンから始まります。直ぐに、三十年前のあの僅か4日間の出来事に移行します。女性には夫がいましたが、彼女は孤独で味気の無い生活を強いられていました。そこに写真を撮ることを仕事とし、孤独に各地を移動しながら撮影する若くもないカメラマンが彼女の家に現れました。「橋の場所」を尋ねる為でした。出会いの瞬間から、二人は互いに惹かれる何かを感じあいます。 彼女は彼をその橋に案内しました。                  このようにして、ラブストーリーは展開して行きます。           女性の名は「フランチェスカ」、カメラマンの名前は「ロバート」、です。  メリル・ストリーブとクリント・イーストウッドが演じました。                     この映画は大成功で世界中で上映されました。

当時、こんな「カッコイイ」カメラマンになりたい、と思った「写真好き」が大勢いた事でしょう。 私もその一人かもね?                       日常的に、私は写真が趣味だと言っていますが、「自己流」ですし、「写真コンテスト」には全く興味がありません。大体が風景写真ですが、勝手に撮っています。特に「川」や「橋」のある風景が好きで、橋の写真も沢山撮りました。  橋は特別な場所だと思います。川が隔てている「向こう岸」と「こちらの岸」、それを繋ぐ特別な道です。                                ラオスの西縁のかなりの部分はメコン川で、タイとの国境線になっています。そこに何本か架けられている「友好橋」が両国を結んでいます。シンガポールとマレーシアは海峡で隔てられていますが、そこも橋で結ばれています。      マレーシア北部とタイ南部を繋いでいるのも「橋」です。          このマディソン郡の橋は、「ローズマンブリッジ」といいます。屋根が掛かっている橋です。

ところで、「三途の川」に「橋が架かっている」、と言う話を私は聞いたことがありません。でも私は、もし「三途の川」に橋が架かっていて、川を簡単に渡れたらどうなるのか? と想像した事があります。                 もしかすると、この話は「落語」の面白い「ネタ」になるかも知れません。                         「オイ、ハッツァン、向こう岸に冥途が見えるだろう! チョイトこの橋を渡って冥途見物としゃれこもうじゃねえか!」なんてね。             いやいや!今、書こうとしているのはそんなバカげた話ではありません。

この橋はラオスからベトナムへ行く国道に架かっています。このタイプの「古い橋」の中では、非常に立派な方です。

ラオスには橋が余り架かっていませんので、山道は谷を越えられません、だから山を巻くように山肌に沿って道があります。結果として、道は蛇のようにうねって、地図上の距離と実際の距離がまるっきり違います。橋があっても、細い吊り橋が多くて、車は大抵通れません。

今回、何故「マディソン郡の橋」を取り上げたかと言いますと、このストーリーが非常に「甘くて、切ない」からです。現代を生きる人々は余りに「直接的」でして、このような「回りくどくて、面倒な話」は流行りません。       絶滅危惧種かも知れません。 人間、何歳になっても「ロマン」は失いたくないものです。                                例え、「お前は、青臭過ぎる!」と言われようともね。

 

 

 

遠い昔は日に日に薄くなり、        やがては静かに消えてゆくのです。  

どなたにとっても、過去は「甘く切ないもの」なのかも知れません。         前回、私は自分の過去を振り返り、強く印象に残っていた出来事を書きました。でもそれを書いた直後、もう一度記憶を反芻しました。そして改たな気づきを見い出しました。それは彼女との最後の出会い、あの朝の事です。       私は二十数年間、あの最後の出会いは「偶然」の出来事だと思って来ました。               でも、あの出会いは「偶然にしては、出来過ぎている」、と感じたのです。  なぜなら、あの時まで、私は「町中で」しかも「日中に」彼女を見かけた事は一度だって無かったのです。もちろん彼女が住んでいた場所は見当もつきませんでした。それなのに、何の悪戯なのか、あの「タイミング」で、しかも「あの路上」で彼女と出会ったのです。出会いが「偶然」の出来事だったと決める事には無理がある、と感じたのです。 

 さてここで、私が勝手に推測している「マレーシアでの情報伝達の仕組み」について、チョット書いてみたいと思います。                          マレーシアの人口構成は、「マレー系住民」が約55%、中国系住民」が約30%、「インド系住民」が約10%、その他は「少数民族の人達」でした。 ラウブの友達は、ほとんどが「中国系」の人達でした。私が何度かラウブを訪れているうち、いちいち日本から小さな土産(茶とか海苔とかの小さな物)を、幾つも揃えて彼らの為に持参する事が面倒くさくなりました。             そこで、現地の友人達には黙って、ラウブに行った事があります。ところが半日もすると、私がラウブに行っている事を皆んなが知っていたのです。どうして、知っているのか不思議でした。当時は携帯電話など有りませんからね。         「華僑の人達」は世界中に情報網を持っています。では、ラウブの友人も情報網があったのでしょうか? そんな事は無いはずです。

  マレーシアでの食事は外食が普通で、一部の金持ちだけが家庭で食べていました。だから、食事をする時はいつも数人の友人と一緒でした。          ところが大抵の食事は、丸テーブルの中に「私が知らない人」が混ざっていました。最初はどうして自分の知らない人がそこにいるのか?解りませんでした。 その「私にとっては知らない人」が、「我々の話」を同じ席で熱心に聴いていました。多くの会話には必ず「困った事」や、「解決しなければならない事」が出て来ます。すると、次回皆で食事をする時には、いつもその「問題を解決出来る人」が加わっていました。良く考えれば多くの場合、その「知らなかった人」が私を助けてくれていました。そして、後になって「成る程」と思ったのです。 その習慣の素晴らしさが解りました。食事というのは、単に「食べる場」ではなくて、情報交換の場だったのです。この仕組みは非常に優れていて、知り合いはあっと言う間に増えてゆきました。華僑の人達は「世界レベル」でこの仕組みを持っている、と思います。困った時には有効に機能しました。        でも逆に、「チョットした噂」でもあっと言う間に伝わって行くのです。

私は外国人ですから、「話題に上る事」も多かったのだと思います。     私が「何処に泊まって」いて、「何をしている」のか、「どんな事を考えているのか」、多くの友達は日常的に知っていたのです。               「ビアーガール」の彼女もその「伝達網」の中の一人だったのではないでしょうか?そしてもしも、彼女が「私の行動の一部始終」を情報として聞いていたとしたらどうでしょう? 「あの朝、路上で彼女と出くわしたのは偶然だった」と、思い続けて来た、私の二十数年間はどうなるのでしょう?                              もしかすると、あの朝「彼女は私に別れを告る為」、「わざわざ」、「さり気なく、歩いて来てくれた」のかも知れないのです。                                  私が長い間「単なる偶然」だと思っていた事が、実は「意図的な行動」だった。    そう考えた瞬間、衝撃が私の体を貫きました。 

人生には、「甘い」けれど「切ない」出来事があるものですね。

 

 

マレーシアのラウブ、一歩目を印してから2年、3年、と時が流れた。      平和な町、そこでの「ロマンス」は?       

当時の私は、木工事業の事だけに意識を支配されていました。        だからマレーシアに行く事は億劫でした。でも「事業を物にする為」には行かなければなりません。それって結構、「気が重い」のですよ。

「向うへ行って何にも楽しいことは無かったの? 一番楽しかった事はなに?」             ≫≫「一番良いことかい?そうだな、異文化の中に浸っていると言う、何とも表  現できない、不思議な気分に引き込まれた事かな~」                             

「いやそうじゃなくて、もっと心ときめく事だよ!そんな事って無かったの?」      ≫≫「そうだね、埃と油にまみれた男達が、唸りを上げる大型のバンドソーを自在に操る姿には圧倒されたよ。」「それから、合板工場で蒸気を上げて真新しいベニア板が出来上がるのを見た時、少し興奮したな!」 

「じれったいな~、ばかやろう!」「そうじゃなくて、もっと良いこと無かったのか?と、聞いてるんだよ!」                         >「いい事ね~。 あっ、そうだ! あった! 一つだけ!」

二十数年前のラウブには「カラオケ屋」さんが2件、映画館が1件ありました。当時、向うでは「カラオケ」の事を「カーリーOK」と言っていました。   一件目のカラオケ屋さんは、日本で言う「カラオケボックス」に近い形で、部屋の中央に幾つかのソファーの席があって、その周りにはガラス張りの小部屋がありました。客は、電話機で曲名をリクエストします。すると、端にガラス張りの「カラオケのオペレーションルーム」があって、「若いアンチャン」がその曲の入った「30センチのディスク」を探して、機械に掛ける。そんなシステムでした。 注文の飲食品はウエイターが持って来ます。ただし、「接客サービス」は無かったことを明言しておきます。

もう一つの「カラオケボックス」は、ステージがありました。そのステージでドサ廻りの歌手が歌うものでした。歌手は曲が変わる度に衣装を脱いでゆきました。でも、マレーシアは「イスラムの国」だからヌードは禁止です。だから水着になった所で終わりです。残念でしたね~。                    しかし、客が「強く希望をすれば、歌手のテイクアウトも可能」との話でした。

クアラルンプールは大都会だから、日本以上に楽しい場所が有ったらしいけれど、こちら、経験がないので情報を持っていません。

 私が勝手に「アンダー・ツリー・レストラン」と呼んでいた店で、大抵は友人達と夕飯を食べました。そのレストラン、「屋外の席」では生い茂った樹々の下で食事が出来ました。何を食べているのか良く解らない程、薄暗い場所でした。     そのレストラン(多分、他のちょっとしたレストランでも同じ)、ビールの販売はビール会社からの「派遣ウエイトレス」が行っていました。そのレストランのウエイトレスは「派遣」と言っても「地元の人」で、友人たちは皆んな彼女の自宅を知っていました。

私は何度もその店に行って食事をしていたので、段々と彼女と親しくなりました。他の席からの注文が無い時には、こちらの席の傍に来て話をしていました。私は彼女の名前を知らなかったので「ビアーガール」と呼んでいました。   後で名前を教わったけれど、マレーシア式の名前で覚えれませんでした。

 

何時ともなく友人達は、今日は彼女は店に出ているとか今日は休みだとか、私に教えてくれるようになっていました。何故わざわざ教えてくれたんでしょうね?

どれくらいの年月が経過したのか忘れました。ラウブに行ったある日の事、友人が私に、済まなそうな顔で「ビアーガールはお嫁に行った」と告げました。  でも私達は、その夜も「アンダーツリーレストラン」に行きました。     が、案の定、彼女はいませんでした。

 ところが翌朝、私が一人でラウブの町を散歩していた時、「偶然」にも一人で歩いてきた彼女と、「歩道で出くわした」のです。              彼女もビックリ、こちらもビックリでした。昼間に彼女を見たのは、その時が初めてでした。彼女は少し、はにかんでるように見えました。             小さな町だから、噂は半日で広がります。噂には尾ひれが付くのは当たり前です。私は、彼女に嫌な思いをさせてはならないと思いました。               だから余り長い立ち話は出来なかったのです。ましてや「お茶飲み」など出来るはずもありません。                            私は、彼女を歩道に立たせて写真を撮りました。彼女は私服でしたし、化粧も大してしてなかったと思います。撮影条件の良い場所だから、綺麗な写真が撮れていました。けれども、その写真が何処に行ったものか、いくら探しても見つかりません。非常に残念です。      

 それから、もう二十数年が経っています。彼女も歳を重ねているはずです。 子供だっているはずです。子供は大きくなり、もしかすると孫がいて、彼女は「おばあちゃん」になっているかも知れません。                  彼女と永久に再会出来る事は無い、と思います。

 

 

 

  

貧しく見えても貧しくない。陰鬱に見えるけど意外と陽気。         不可思議な国、ラオス。     

 前回は「30年前に私が感じたマレーシア」の様子を記述しました。         今回は「場所と時間」をがらりと変えて、「3年前のラオス」に移動します。 マレーシアは赤道直下の「熱帯雨林気候」、「一年を通して非常に暑い」のですが夜間はやや涼しくなります。それと比較して、近年私が通う事になった「ラオスの北部地域」は、緯度的にはホンコンよりやや南で、「亜熱帯気候」です。 けれども、私が行っている地域(ウドムサイ県)は内陸(ラオスは内陸国、海の無い国)で、しかも山間部なので朝晩は寒いくらいです。何処に行っても「川」が流れていて涼しいです。昼と夜の寒暖の差が大きいので、何時も朝には「霧」が発生します。 

昨日の新聞に、「中国が主導してメコン川の開発が進んでいる」との記事が有りました。その中に、メコン川の「ダム建設計画」の事が掲載されていました。「ラオス」「タイ」「カンボジア」を流れるメコン川の主流部分に、ダムが建設されるのです。中国を流れるメコン川主流には、既に5箇所のダムが稼動中である、と記載されていました。そして、ラオスではウドムサイ県の「パクベン」に建設計画があるとの記事です。しかし、私が数ヶ月前に「パクベン」を訪れた時には既に工事は始まっていました(機会をみてその事も記述します)。更にその記事では、「サイニャブリではダム建設が始まっている」と言っていますが、3年前に訪れた時には、既に工事は終盤にさし掛かっていましたのでもう完成しているかもしれません。 今回は、ラオスの中で特に、「私が見たサイニャブリー県の様子」を記載したいと思います。

サイニャブリー県のサイニャブリでは、毎年2月の半ばに「象祭り」が開催されます。ラオス全土から象が何日もかけて集合し、盛大な祭りが繰り広げられます。祭りの前夜祭も盛大です。祭りを待ちかねた人々が広場に集まり、子供等はそこに作られた「移動遊園地」で楽しみ、若者達や大人達は、「沢山の夜店や様々なイベント」を楽しみます。                               早朝から、象の世話をする人、イベントに備えて象の訓練をする人、出店の準備をする人、関係者は大忙しです。 が、どの人の顔もウキウキとし、興奮に包まれていました。

ここは「県庁」?あるいは「ラオス政府関係の役所」? この役所の偉い人に会って来たのですが。 先方は全く英語が解らない、こちらは全くラオス語が解らない、ラオスは「言葉の不自由」をいつも感じる国です。           友人の通訳で会話をしましたが、その友人も私と同様で粗末な英語です。そんなで会話しているどうしの通訳ですから、相手との理解もイマイチ進まないのです。多分どちらも半分くらいしか解っていなかったと思います。

サイニャブリー市は県庁所在地、大学もある大きな街ですが、中心部は400メートル四方くらいしかなくて、周辺地域は「やはりここは、ラオスに違いない」と感じる風景になります。

中心からちょっと外れたマーケット、野菜や果物は豊富で、価格も安いです。  でも郊外に出れば風景は一変します。

怖い物知らずで何処までも突っ込んで行く、これが私の癖です。

でも、今まで「危険を感じた経験」は有りません。 こう見えても、意外と用心深いのだと思います。  次回はまたマレーシアに行きます。

 

 

 

郷に入らば郷に従え、何時も抱いている信条。 マレーシアが馴染みの地となる。

30年前、私が初めて降り立ったマレーシアの空港は、「スバン国際空港」です。クアラルンプール中心街から北西方向に約15Kmに位置する小さな空港でした。滑走路の向こう側には、赤く錆びたトタン屋根の格納庫が見えていました。それは軍用機の格納庫でした。その前には、あまり大きくない双発のプロペラ機が駐機していたと思いますが、記憶が定かではありません。                  空港を出ると、むせ返るような湿気を帯びた熱気、そして独特の匂いがする空気が立ち込めていました。空港の前には広場のような駐車場とバスの停留所があって、そこにいるどのタクシーの屋根も、どのバスの屋根も、そのペンキは黒ネズミ色や赤ネズミ色に変色し艶を無くしていました。熱帯の日差しと強烈な雨に晒されて来た為でしょうか? でもそれらの古ぼけた車は、強い日射の下で忙しそうに走り回っていました。 この光景が私の記憶に残っている、マレーシアで第一歩を踏み出した時の画像です。この異国の世界と自分との間に、どんな関係が生まれるのか? その時は全く分かりませんでした。残念ながら、その時の写真は行方不明です。どこかにあるはずですが、余りに大量の写真に紛れてしまっています。 最初の一歩以来、「自分はこのマレーシアで、木工に関連した事業の可能性を見出すのだ」と言う感覚は、私の意識から抜けた事は一度もありませんでした。当時は本業である「高圧ガス関連の事業」の先行きに不安があったのです。現に業界全体が不景気の中にありました。「早く何かの手を打たなければならない」と焦り、「どんな事でもする」と切実な使命感に駆られていました。

マレーシア国内で「見た風景」「見た物」、全てが珍しくて新鮮でした。

何度かマレーシアに通う内に、パハン州の「ラウブ」と言う町が私にとっての拠点となりました。 そこの「レストハウス」と言う(日本で言えば国民宿舎)宿が常宿になりました。当時は一部屋、一泊素泊まりで ¥800 でした。しかし、時々停電がありましたし、電気の貯湯式シャワーは時々故障で水しか出ない時もあったし、壁にはヤモリが沢山這ったりしていました。便所兼シャワー室には大きめの水槽が置いてあって、水を貯めて手桶で体を流すのが普通でした。入っているのは、桶の底が見えない程に濁った水でした。建物はイギリスの統治時代に作られた古い木造です。 これらの話は今から30年前の事です。 現在は建物本体はそのままですが、外装も内装も設備も改修されていまして、予約しなければ泊まれないらしいです。現在の価格は ¥6,000 前後に上がったらしいです。

レストハウスのすぐ下がバスセンターで、タクシーやバスはここから乗れました。こんな形で滞在している間に、ラウブの町に知り合いが結構出来ました。 町中を散歩している時に、声を掛けてくれるような友人も出来ました。

この写真の真ん中の人はとても親切でした。ある日、町中を歩いていたらこの人がバイクで通りかかりました。ちょっと話をした後しばらくすると、この人がヘルメットを持ってまた現れました。ヘルメットを被ってバイクの後ろに乗るように言われました。ラウブの町を案内してくれると言うのです。相乗りで2、3時間走ったと思います。今ではその縁も切れてしまいましたが、30年間忘れられない思い出となりました。 製材所廻りと同時に、木工所廻りも随分しました。

木工所を見学する度に、こんな機械設備をする事が自分にも出来るだろうか?  羨ましいと同時に先行きの「資本投下」が恐ろしくなりました。しかしそれ以前に、自分はこう言う設備で何を作れば良いのだ? そちらの方が大問題でした。

マレー半島の東部を北方に行くと「コタバル」、タイとの国境になります。国境は小さな橋で結ばれています。国境を越えるには、パスポート見せそこにスタンプが押されるだけです。こんな小さな川だから、簡単に渡れます。現に橋の下では小さなボートが行き来していました。だから「国境破り」は日常茶飯事でしょう。しかし、マレーシアの男衆にとっては、このスタンプが重要だったらしいです。 国境の北側、タイの入り口の街には沢山の「マッサージ屋」さんがあって、「マッサージの料金」はマレーシア側の半分以下だそうでした。この事は「公然の秘密」でして、マレーシアの男衆は時々通ったらしいです。だから男衆は、「パスポートは絶対に奥さんには見せない!」と言っていました。

でも私の頭は木工事業の事で目一杯、とてもそんな余裕はありませんでした。

ナンマイダブ、ナンマイダブ、ナンマイダブ。