今回もバクーをとり上げます。このブログは主としてアジアの国々について記述しようと始めましたが、世界を眺めながらアジアも眺めたほうが楽しそうです。私は見聞が広いわけでは無いですが、学者や評論家の目線ではなく、庶民の立場です。世界を「庶民目線で見る事」も大切かと考えています。
私が最初に見たバクー市街は、まるで「大金持ちだけが住んでいると錯覚」しそうな様相でした。おまけにアルバイトガイド、大学教授の横柄な態度に接したもので、「バクー」とはこの様な姿なのかと思ったのですが、後からそれが大きな誤解だった事が分ったのです。
「バクー油田」は第二次世界大戦が終った頃は世界最大の産油量を誇っていたのですが、次第に「ペルシャ湾岸」の油田開発が進むに従ってその地位は落ちて行ったようです。それまでソ連はこの油田地帯は国家の最重要地域でして、絶対に他国に侵されてはならない油田(大戦中はドイツに狙われた)だったようです。しかし、1950年頃になると、原油の「枯渇」が懸念され始めて、次第に衰退して行きました。
枯渇が推測されるような油田に拘るのは得策ではない、と考えるのは自然の成り行きなのでしょうか? ソ連はこの油田を見限ろう(なるだけ良い条件で権利を手放す)と模索したのでしょうか? そこに目を付けたのが西欧の巨大石油資本家でした。石油の「探査技術」と「掘削技術」(海底油田の開発技術)を格段に進歩させていた西欧の巨大石油資本は、争ってこの地域に乗り込んで来たとのことです。そしてカスピ海のバクー油田は再度埋蔵量世界一の地位を獲得したのでした。
巨大資本の海底油田の開発意欲は凄まじく、大挙して開発に乗り出しました。石油掘削用リグは「人工地盤」に、そして資材を運搬する通路は「道路」に変えられ、ついには、住居、商店街、学校、病院、が「連結されたリグの上」に建設され「海上都市」が形成されるに至ったのです。 残念ながら私には海上都市の写真は撮れないので、ネット上の写真を転載させてもらいました。
私が最初に見たバクーの市街地は、新たに参入した巨大資本によって作られた都市だったようです。
しかし、古い陸上の油田は現在も油を産出しています。私が想像していた情景は、正しく実在していたのです。
油田開発から見放されて来たバクーの人々は、昔ながらの生活を営んでいます。
殺風景な写真が続きましたので、最後に少し楽しい写真を掲載します。
アゼルバイジャンの隣の国はグルジア(現在はジョージア)です。この国のベリーダンスです。 このダンサー、美人ですけれどベリーダンスよりも、ストリップショーで踊った方が似合っていると思いませんか? 次回はグルジアに行きましょう。