アゼルバイジャン   「カスピ海クルーズ」      普通の人々は休日をどう過ごすの?

一介の旅行者に、現地の人々が日常どんな生活をしているのかなど、解るはずもありません。そうではありますが、それでも私は、その国の日常生活を知りたくて旅行をするのです。 今回は、一庶民である「私自身の庶民的目線」が見た、アゼルバイジャンの人々の日常生活、特に「休日を楽しむ様子の断片」を紹介する事を試みます。

私の想像では、この写真に登場している人々は普通の人々(中流レベルの人々)かと思います。「カスピ海クルーズ」は庶民の楽しみの一つだと思います。  クルーズと言っも観光船でバクーの沿岸を短時間巡るだけですが。

バクー沿岸の景色は風光明媚とは言えませんが、ここが「カスピ海である事」それが重要です。  船上では、みんなが開放感に浸っていました。

子供達も楽しそう。  ねえ知ってる? カスピ海ってね、地球上に二つしかない海の一つなんだよ!  でも、2番目の大きさなんだって!

バクーの桟橋の前は公園です。人々はのんびりと散策しています。  ここには特別な物は無いけれど、穏やかな空間があるよ! 一緒にお散歩をしましょう!

わたし馬車に乗りたいの! でももう帰る時間だよ、この次にしよう。

 

 

 

 

 

アゼルバイジャン  「カスピ海」           世界最大の湖か? 地球上で二つ目の海か?

前回、次回はグルジア(ジョージア)に行くと予告しましたが、「大きな物」を忘れていました。それは、日本国の面積には少し及ばないもののほぼ同じ面積を誇る世界最大の湖??「カスピ海」です。だから今回もアゼルバイジャンに留まります。

ところで何十年も前から、カスピ海の周辺国(アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタン、ロシア)ではこの広大な水面が、「海」なのか「湖」なのかで激しい議論を繰り広げています。カスピ海に接してない国である日本から見たら、そんな事は「言葉の違い」だけで「どっちだっていい!」と思いますが、そうは行かない「重要な問題」があるらしいです。それは経済上の争いなのです。国際法上「海」と「湖」では全く扱いが違うらしいです。もし「海」だとしたならば、「排他的経済水域の考え方」が分割の基本的条件となるらしいです。ところが「湖」だとしたならば「海洋法」が適用されないので、習慣的にカスピ海は沿岸国で均等に分割すべき、と言う事になるらしいのです。 この「言葉」の影響が最も強く及ぶ国は「イラン」です。イランにとって、「湖」とするのと「海」とするのでは、権利の及ぶ範囲が2倍くらい違うらしいのです。 だから、イランは「カスピ海」は「湖」である、と言い張っているらしいです。何しろカスピ海には、巨大な埋蔵量が予測されている海底油田が散らばっているのですから! 各国は国の利害を賭けて、「海だ!」とか、「湖だ!」とか、激しく議論をしているらしいです。未だにこの問題は解決をみないまま、睨みあいが続いているとのことです。

ところで、「カスピ海」の水は「塩水」です。塩分濃度は1%ちょっと位で、いわゆる「海洋」の塩分濃度の三分の一程度です。ただし「カスピ海の標高」は、マイナス約28m、つまり海面下ですので「死海」と同じように、「カスピ海の水」は外洋には流れ出る事が出来ません。ここに流れ込む河川は約130もありますが、北部のロシア側からの水量は南部イラン側からの水量よりも遥かに多いので、北部カスピ海の塩分濃度は、南部のそれよりもかなり低いそうです。個人的な想像ですが、カスピ海には「海流」が殆ど無いはずですから、水が余り混じり合わないので、その為、塩分濃度のばらつきが大きいのだと思います、(北部の水深は浅くて10m程度しかないのに、南部の水深は900m以上もあるので、南部では水深によっても塩分濃度はかなり違うかも知れません)。    何しろカスピ海、南北の長さは日本の本州の長さよりも少し短いけれど約1000Km近くもあるのですよ。

「世界の海」は場所によって太平洋とか大西洋とか名前は変りますが、海水は全部繋がっているので結局は一つだともいえます。そのように考えれば、海洋から切り離されているカスピ海は「地球上にある二つ目の海」と言う事になります。

バクーはカスピ海沿岸で最大の都市です。市街地は美しく整備されています。

夜のバクーも美しいです。

夜明けも美しいカスピ海。

 

アゼルバイジャン 「バクー」  <二の巻>   古い時代のバクーは実在していた。

今回もバクーをとり上げます。このブログは主としてアジアの国々について記述しようと始めましたが、世界を眺めながらアジアも眺めたほうが楽しそうです。私は見聞が広いわけでは無いですが、学者や評論家の目線ではなく、庶民の立場です。世界を「庶民目線で見る事」も大切かと考えています。

私が最初に見たバクー市街は、まるで「大金持ちだけが住んでいると錯覚」しそうな様相でした。おまけにアルバイトガイド、大学教授の横柄な態度に接したもので、「バクー」とはこの様な姿なのかと思ったのですが、後からそれが大きな誤解だった事が分ったのです。

「バクー油田」は第二次世界大戦が終った頃は世界最大の産油量を誇っていたのですが、次第に「ペルシャ湾岸」の油田開発が進むに従ってその地位は落ちて行ったようです。それまでソ連はこの油田地帯は国家の最重要地域でして、絶対に他国に侵されてはならない油田(大戦中はドイツに狙われた)だったようです。しかし、1950年頃になると、原油の「枯渇」が懸念され始めて、次第に衰退して行きました。

枯渇が推測されるような油田に拘るのは得策ではない、と考えるのは自然の成り行きなのでしょうか? ソ連はこの油田を見限ろう(なるだけ良い条件で権利を手放す)と模索したのでしょうか? そこに目を付けたのが西欧の巨大石油資本家でした。石油の「探査技術」と「掘削技術」(海底油田の開発技術)を格段に進歩させていた西欧の巨大石油資本は、争ってこの地域に乗り込んで来たとのことです。そしてカスピ海のバクー油田は再度埋蔵量世界一の地位を獲得したのでした。

巨大資本の海底油田の開発意欲は凄まじく、大挙して開発に乗り出しました。石油掘削用リグは「人工地盤」に、そして資材を運搬する通路は「道路」に変えられ、ついには、住居、商店街、学校、病院、が「連結されたリグの上」に建設され「海上都市」が形成されるに至ったのです。 残念ながら私には海上都市の写真は撮れないので、ネット上の写真を転載させてもらいました。

私が最初に見たバクーの市街地は、新たに参入した巨大資本によって作られた都市だったようです。

しかし、古い陸上の油田は現在も油を産出しています。私が想像していた情景は、正しく実在していたのです。

油田開発から見放されて来たバクーの人々は、昔ながらの生活を営んでいます。

殺風景な写真が続きましたので、最後に少し楽しい写真を掲載します。

アゼルバイジャンの隣の国はグルジア(現在はジョージア)です。この国のベリーダンスです。 このダンサー、美人ですけれどベリーダンスよりも、ストリップショーで踊った方が似合っていると思いませんか? 次回はグルジアに行きましょう。

アゼルバイジャン 「バクー」  <一の巻>    超大金持ちが住む街

今回は長文になってしまいます。悪しからずお付き合い下さい!

カスピ海の西岸に位置するアゼルバイジャン、その首都がバクーです。     バクーは原油を産出している世界でも有数の地域です。

私が中学生の頃「バクーは、世界で一番石油を沢山産出している油田です。」 そんな文章が社会科の教科書に書いてありました。当時、何も知らない私はまず[バクー]の発音が、「犬が人に噛みつく様」を連想して「音」として可笑しかったのですぐに地名を覚えました。当時はペルシャ湾岸諸国の油田はまだ開発途上であって、バクー油田が世界の産出量の半分くらいを占めていたのです。それから[カスピ]と言う地名にも「不思議な響き」を感じていました。そのせいでしょう、私は社会科が非常に苦手科目だったけれど、「バクー油田」の事だけは直ぐさま「ちゃんと覚えた」のです。そして、いつかは「カスピ海」と「バクー油田」をこの目で見てみたい、と思うようになっていました。そして大人になって、「カスピ海の上空」を飛ぶ機会を得たのです。

最初にカスピ海を「西方から東方へ」通過したのは、太陽が夕日となって地平線に隠れそうになっていた時刻でした。眼下に黒味がかたった「群青色のカスピ海」が見えた時の印象は脳裏に鮮明に残りました。カスピ海の西岸にあるはずの「バクー」を必死で探したけれど見つけられませんでした。写真の左側が西です。その時は、バクーが小さな街である事は知っていたけれど、「原油を汲み出す井戸から出るガス」を燃やす大きな炎が見えるに違いない、と考えていたのです。でも良く考えてみれば、例え「炎」が燃え上がっていたとしても、一万メートルもの上空から炎が見えるはずは無かったのです。それに、その炎だって燃えているという保証は全く無かったのです。バカな考えを持ったものです。それから、その次にカスピ海の上空を通過する機会を得たのは、「東方から西方へ」向かった時でした。でもその通過時刻は真夜中だったから、眼下は真っ暗で海面すら見えませんでした。その時私は、点のような小さな明かりさえも見落とすまいと探したけれど、結局見えませんでした。それからも、何としてもカスピ海をはっきりと見たい。と、そんな願望を持ち続けました。           そして、ついにその願望は現実のものとなりました。

この足で「憧れのバクー」に降り立ち、空想の場所であった油田地帯を確認できる機会となるはずでした。

しかし、実際のバクーはそれまで抱いていたイメージとは「全く別物」でした。      それまでバクーは、原油をくみ上げる為の鉄塔のような「井戸のやぐら」が大地に林立していて、所々に「やぐら」から吹き上がる炎が見える(湾岸戦争終了の間際、クエートの油田が燃えていたニュースが刷り込まれていた)、そんな情景をイメージしていたのです。そこは片田舎で寂しくて殺風景な場所に違いない、と思っていたのです。  ところが! ところが! です。

この写真が、現実のバクーでした。近代的な高層ビルが建ち並び、未来都市を象徴するようなデザインのスタジアムやビル群が広がっていたのです。     その上、これまで自分が持っていた「バクーへの思い」が破壊される出来事が発生したのです。

皆さんにはこの写真の建物が何だか解りますか?  実は私にも解らないのです。 この写真のシャッターを切った直後、突然、私のカメラのレンズが何者かの手で塞がれたのです。最初、何が起こったのか解りませんでした。原因は、我々の「現地ツワーガイド」が私の撮影を妨害したのです。こちらにしてみれば、普通の街中を普通に歩いていて、ちょっと変わった建物があったから撮った。それだけの事なのです。それを、何の説明もなしに突然妨害して来たのです。しかも、妨害したのはツワー会社が雇った「現地ガイド」なのです。こちらはガイドのやり方に腹が立ったので、ガイドに文句を言いました。そのガイドは平然と、「国旗の出ている建物は撮るな!」と言うのです。こちらは、「そんな事は最初から言って置くべきだ! それにこの建物の何処に国旗があると言うのだ!」と言い返したのです。けれど、ガイドはそっぽを向いて平然としてたのです。そのガイドは中高年の、「大柄で太った女」でした。後で添乗員に聞いたところ、このガイドは大学の教授をしているのだけれど、教授の仕事だけでは生活が成り立たないのでアルバイトでガイドをしていると、そんな事でした。   もう、この事があった後は、自分があれほど思い入れをしていた「バクー油田」に興ざめしてしまいました。こうなると、坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなって、見る物全てに反感を持ったのです。

この写真の建物は公共の建築物ではないのですよ、個人の住宅なのです。私はこの家を見て、素直に「凄い家だね。良いね!」とは思わなくなっていました。    逆に「石油成金め、こんなに「でかい家」を建てて、どうするつもりなんだ!」と、もう反感だけが先に立ちました。  私のある友人がよく言っていました。「その国に好印象を持つか反感を持つかは、その国で最初に出会った相手によって決まってしまう!」とね、本当にその通りの事が起こったのです。

でもその後で、「別の現地ガイド」となったので、印象もがらりと変わりました。 その事は、この次の回に記述します。

ラオスの実力者しかも大金持ち。でもその人は、気さくで飾らない人でした。

このブログ、これまでは、今までの私の人生に於いて感じ取って来た、社会観や歴史観などを「多面的」且つ「大雑把」に取り上げて来ました。       これからは、私の「目」や「肌」が感じ、得とくした事柄を一つ一つ細かく取り上げて記述しようと思います。

ラオスには大勢の貧しい人々がいます。でも、一握りですが「裕福な人」がいる事も事実です。今回はラオスでも「まれに見る大金持ち」に焦点を絞ります。      その人と言うのは、私がラオスで最初に知り合いとなった、友人の父親です。

私はその友人の父親が相当の大金持ちだと言う話は、以前から聞いて知っていました。でもどれ位の資産家であるのかは想像がつきませんでした。そんな中、彼は、私を自分の実家に連れて行って父親を紹介する、と言ってくれたのです。 私は、これは「表敬訪問」になるのかな?と思って、失礼があってはいけないと考えたので、ネクタイを締めて行きました。何しろ彼の父と言う人は、15種類を超える事業を営んでいる、と聞いていたからです。

私達がウドムサイの街はずれにあった大きな屋敷に着いた時、彼は、ここが自分の実家なんだ、と言ったのです。その時は本当にびっくりしました。それが個人の住宅とは思えなかったのです。

車で庭に入ると、この建物の隣の建物(それも豪華)の玄関先で数人が食事をしているのが見えました。その人達を、私はこの家の使用人が外(玄関先の軒下)で朝の食事しているところだ、と思ったのです、でも違いました。その中の一人が彼の父親だったのです。父は食事を中断して、私を家の中に招き入れました。そして朝食を一緒に食べようと、わざわざ主人自らの手で表から食べ物を運んでくれたのです。 その主人は酒が好きで、朝から一杯やっていました。お前も一緒に飲め、と言われたので一緒に飲ませてもらいました。もし、父親がこのような人柄の人だと最初から知っていたなら、わざわざネクタイなどせず気楽な気分で面会が出来たのに、と思いました。

私が彼に「あんたの実家すごいね」と言うと、彼は「じゃあ見てみなさいよ」と、家の中を案内してくれました。

床も天井も、螺旋階段も、そしてドアも家具も、壁の腰板までもがローズウッド(紫檀)でした。私は木工もやっていたので、ローズウッドが超高級な材料(ラオスでも)である事は知っていました。この建物がどんなに贅沢に出来ているかが、すぐに判りました。

 

朝食が終わると、父親は、住居に隣接している果樹園の手入れと、この庭の掃除は自分の仕事だ、と言ってせっせと取り掛かりました。

 

美しい日本、春を謳歌する花々。

四季が明確な日本列島。彼岸が近いこの頃ですが、私の地域では春が訪れました。雪国はまだ深い雪に閉ざされている季節です。南の地域では桜の便りが交わされています、桜前線が北上を始めました。 私の住んでいる千葉の春は、梅が咲いて、こぶしが咲き、雪柳が満開になり始めると桜のつぼみ蕾が開き始めます。春はこんな具合いでやってきます。

今回は何も考えずに、日本の春の写真を掲示します。四季折々に変化する日本の美しさを連想して頂けたなら幸いです。

我が家の「すもも(プラム?)の樹」は誇り高々に沢山の花を咲かせます。でも毎年、春が終わる頃2センチ位に育った大量の実は、あえ無く全てが落ちてしまいます。悲しいかな、素人の私にはその原因が解らないので、実を救う事が出来ません。

春本番になると、庭の草花も生き生きして来ます。

「樹木の花」や「野に咲く花」だけでなく、花屋さんの店先は、春がはじけ花があふれ出しています。

ラオスにも春があるのかどう私は解りませんが、一月の末頃になると、乾季に入ります。乾季は日差しが強いけれど、空が明るくなります。無舗装の道路は「泥の道」から「砂埃の道」へと変わります。ところで、私には今度ラオスを訪れる時、友人に聞いてみようと思う事があります。それは、「乾季に入ると人々の心は浮き立つのかどうか?」 そして、「雨期に入ったなら、作物は潤うのですが人々の気持ちも潤うのかどうか?」です。

地味で目立たないラオスの国柄、この国ににだって乾季には美しい花々が咲き誇ります。

美しい風景と平凡な風景。 美しい人と普通の人。 どこが違うのでしょう?

私がいつも抱く疑問、それは「ある人が美しいと感じるもの」に対して、大抵の場合、「他の人も美しいと感じる」、と言うことです。  人の好みは千差万別なのに、美しいと評判になっている人を、誰もが美しいと認める(余程の変わり者は別です)でしょうし、風光明媚な景色には誰もが感動します。不気味な物、得体の知れない物を大半の人は、「気持ち悪い」と嫌います。人って、どうして、こんな風に同様の感覚を持っているのでしょうか?「人の好みは千差万別」の筈なのですけれどもね?

写真中のラオスの風景(ファイサーイのレストラン)を、風光明媚だと感じる人は殆どいないと思います。

私はこの日本の風景を綺麗だと感じます。皆さんはどうでしょうか?

では、こちらの風景はどうでしょうか?

この景色をある人は綺麗だと感じるでしょうが、別の人は平凡だと感じるかも知れません。 この風景を平凡だと感じる人は、「ラオスには美しい風景が少ない」と思うかも知れません

ところで、「綺麗である事」と「興味がそそられる事」は別次元の話ですから、ラオスの情景を「美しい」かどうかだけの観点ではなく、「興味が持てるかどうかの観点」から眺めて頂ければ幸いです。

この二枚の「浅瀬の風景写真」は似たような光景ですが、場所は全く異なります。似ていても違う雰囲気、そこが不思議です。

この夕焼けの風景を私は美しいと感じます。 と同時に、情景の中にエキセントリックな物悲しさも感じます。

とは言うものの、ヨーロッパの風景にはやはり惹かれるものがありますね。

 

 

五千年も奪い合いが続いている地。乳と蜜の流れる地、「カナン」。

またまたアジアの地から脱線ます。今回は中東に行ってみます。皆さんも、これまで私のブログを見て気づかれたと思いますが、「ラオスの写真」は他の地域のものと比べると、「余り見栄えがせず退屈な絵柄」になっていると感じる事でしょう。「ラオスという国」は何処に行っても自然が溢れ、人々が貧しくても平和に暮らしています。そのような場所を写真の対象として見れば、「変化に乏しく、写真にするのが難しい」つまり写真になり難いのです。それとは対照的に中近東には写真に良い素材が沢山あります。今回はイスラエルの北部が舞台です、国境線も曖昧な地域に焦点を合わせます。

夜明けのガリラヤ湖です。太陽はゴラン高原の向うから昇ってきます。

ここは「ガリラヤ湖」地球上で二番目に海抜の低い湖です。海抜はマイナスで約200mです。「死海」は世界一低い湖ですが、ここから約80Km程南に下った所です。その海抜はマイナス約400mです。ガリラヤ湖から流れ出る水(淡水)は死海に流れて行きます。それがヨルダン川です。死海は世界で一番低い所だからその水は何処にも流れ出る事が出来ないのです。太陽の光と熱で段々濃縮されて、ついには塩水になってしまいました。しかも濃度が濃すぎて塩が結晶として析出するまでになったのです。このブログでも、いつの日か死海をテーマにしたいと考えますが、今回は「ガリラヤ湖」です。

夜のガリラヤ湖、湖の上に点在する灯りはゴラン高原に入植した人々のです。

ガリラヤ湖はティベリア湖とも言われますが、この地域はギリシャ時代以前から多くの民族が奪い合って来た肥沃な土地です。私はクリスチャンではないので詳しいことは知りませんが、旧約聖書に出てくる「出エジプト記」の事は、海が割れるシーンで有名な映画になりました。これは約3000年前(正確には解っていない)の話で、モーセは当時エジプトで奴隷にされていたユダヤ民族を引き連れて、「約束の地」、「乳と密の流れる地」、と言われていたこの地方(カナンの地)を目指した歴史を語っています。ユダヤ教では、ユダヤ人は「神から選ばれた民族」、「カナンの地はユダヤ民族が神との約束で与えられた土地」だと教えています。カナンの地はゴラン高原やガリラヤ湖、死海、その周辺の地から地中海に至る肥沃な土地だったのです。周辺の民族だって自分の土地にしたくなるのは当然の話です。だから五千年間も奪い合いの戦争をしてきたのです。

カナンの地(ゴラン高原も含む)は、シナイ半島やアラビア半島、イランやシリア、等々の非常に乾燥した土地と比べれば、比較的に雨量が有りますから肥沃な耕地が広がる魅力的な土地です。なので、力(武力)を持つ者が支配する土地であり続けましたした。ユダヤ民族はローマの時代にはこの地から追われ、世界中に散らされました。そして暗黒の第二次世界大戦が終った時、国際的にイスラエルの建国が認められたのです。それが認められるやいなや、ユダヤ民族はこの地に結集して来たのです。現在に至っても入植は相次ぎ、周辺国の民族(パレスチナ等)との摩擦が絶えません。ユダヤ系の民族は優秀な能力を背景とし、その富を武器にして、支配地域を広げてきました。付け加えれば、ゴラン高原は中東戦争にイスラエルは勝利し、シリヤからから奪い取った土地です。今も占領が続いています。

ゴラン高原からガリラヤ湖に下った辺りで、約2000年前イエス・キリストが布教活動を始めました。その時、イエスは30歳くらいだったらしいです(イエス・キリストは殆どの布教活動をガリラヤ湖周辺で行っている)、それまではナザレの街で大工をしていたとのことです。驚くべきは、イエスが布教活動をした期間は僅か3年に過ぎなかった事です。33歳の頃に磔(はりつけ)の刑にあったのです。そして2000年以上継続した今も世界中で信仰されているのです。

ガリラヤ湖、湖畔の小高い丘の上で、イエスが多くの民衆に向かって説教をしました。それは「山上の垂訓」と言われ有名な話です。新約聖書に記されています。その場所は学術的には特定されていないらしいですが、現在はその場所だと伝承されている所に「山上の垂訓教会」が建てられています。

ガリラヤ湖は大地溝帯の一部という地勢的な条件もあって、湖面が頻繁に大荒れになるそうです。その為か、聖書の世界ではイエス・キリストが幾多の奇跡を行った話が沢山書かれています。

今回のテーマは路地(枝道とも言います)にしようと思います。

人の住む所ならば、余程の未開発の地域でない限り、どこだって、地図で見れば道路は血管のように大動脈から毛細血管のように網目状に分布しています。大動脈は大通り、毛細血管は枝道であり路地です。私は街角が好きなのと同じように、路地も好きなのです。そこには「表向きの顔」ではない「日常生活の顔」があるからです。

「枝道」と言いましても枝の先の方ではなくて、路地と同じように、本通りからちょっとだけ脇に折れて入った部分でして、ほんの20mか30mも歩けば本通りに出られる、そんな場所の事を念頭にして書いています。

例え表の通りは華やいでいたとしても、路地にはまるで「楽屋裏のような人間臭さ」と「普段着の気楽さ」が漂っています。 私はそんな雰囲気を心地よく感じます。

しかしそこに住んでいる人の立場から見れば、「勝手に自分たちの縄張りに入り込んで来た≪よそ者≫、そいつが許可も無しに写真を撮っている!」 「無礼な奴だ! けしからん!」と、不愉快に思っているかも知れません。だから大急ぎでシャッターを切ります。ですので、なかなか面白い写真になりません。やはり、路地は「さりげなく」自分の目で見るだけで通り過ぎる、そのほうが無難かとも思います。 

でも、です。 それでもシャッターを切らなければならい! そうしないと、自分が現実にその場所に立っていたという証拠が残せないからです。 このことに非常に強いジレンマを感じます。

 

 

 

「人生の清算は自分でしなければならない」 ある作家の言葉です。

ある作家が、「作家は物語を作るのが仕事だけれど、どんな人も、最後には生きた証しになっている様々な場面を糸に紡いで、その糸で人生の物語を織り成さなければならない。」と、このような意味合いの発言をしていました。そして「美しく織り上げる為には、それぞれの糸を美しくしなければならない」と付け加えていました。   織り上げた布は、自分で見ることが出来るわけでもないし、人に見てもらうものでもありません。無限なる時の流れのある一瞬、そのような人生があったと言う小さな波紋を作るだけで、永久に消え去るだけでしょう。

私は様々な場所でいろいろな光景を目にして来ましたが、「街角」の風景がすごく好きです。「街角」とは「道の曲がり角」ということではなくて、「人々が街の中に溶け込んで生きている場所」の事を言っています。街角では、そこに登場しているそれぞれの人物の「生き様」が覗き見れるような気がするのです。

ここはヨーロッパの街角です。

一方東南アジア。こちらの醸す雰囲気はまるで違います。

中国の街角、ここの雰囲気も東南アジアとは異なっています。

東洋人である私は、ヨーロッパの雰囲気は「綺麗で垢抜けしていて新鮮」だと感じます。  でも西洋人からアジアを見れば、「土っぽさと埃っぽさ」が目立つけれど、「エキゾチックな新鮮さ」を感じるのでは?と思います。