≪コスモスのバラード『 友 情 』≫ と言う演劇

一昨日「友情」と言う演劇が「千葉市民会館」で上演されました。私も誘われて観劇してきました。私の勉強不足で、この「友情」と言う演劇が19年間も上演され596回も公演されていた事を知りませんでした。この演劇のテーマは演題の通りで「友情」についてですが、物語の背景に流れていた思想は、「白血病」に侵された人を救うために活動している組織「(公財)日本骨髄バンク」が広く社会に応援を求めようとした思いです。演劇は、白血病患者と本人を取り巻く家族や友人が織りなす人間関係、その中から生まれ出た「互恵」と「温かい相互愛」を「劇の形」で表現したものだと感じました。私が知らなかっただけで、多くの皆さんも既に観劇されているかも知れませんが、まずは大まかな物語を記述します。

北海道で生まれ育った「島崎あゆみ」と言う中学生2年生の女子生徒がいました。彼女は「白血病」にかかってしまったのですが、両親は本人には告げまいとして苦しんでいました。しかしチョットしたきっかけで、「あゆみ」は自分が白血病である事を知ってしまうのです。両親は首都圏でより良い治療が受けられる事を期待して転居して来ました。

「あゆみ」は明るく活発な子、何事にも物怖じしない子でした。転校して来た学校では、大らかで率直な生徒達が学校生活を楽しんでいました。それは担任教師、「野本慎吾」の豊かな人間性による指導の賜物でもありました。ただ一人だけ、そんなクラスの雰囲気を斜に見て「グレている生徒」がいました。それが「森山信一」です。転校初日、「島崎あゆみ」は「森山信一」と争って、信一にナイフで脅される羽目になるのです。その時「あゆみ」は、「刺してみなさいよ!私はもう一、二年で死ぬんだから!怖くなんかないだから!」と啖呵を切ったのです。それを聞いた信一は衝撃を受け、反省をするのでした。「信一」の父は日本人として帰化した韓国人で、子供の頃周りから虐められて育ったのです。 父に「何故帰化したのだ」と攻め寄っていたのですが、段々とグレて行きました。しかし、「あゆみ」の病気を知った彼は、白血病の彼女を何とか助けたいと思い詰めるようになったのです。それをきっかけに、彼は立ち直ったのです。本当は優しい子だったのです。信一が「家庭の医学」をたどたどしく読んでいる姿に彼の両親は驚きました。彼は変りました。「あゆみ」はいつも争っていた「信一」に心を開き、淡い想いを寄せました。ある時、「私は大人になるまで生きたい!」、激しく抱いていた「望み」を、彼に打ち明けたのです。

夏休みに入る前に「あゆみ」はとうとう入院してしまいました。「あゆみ」の命が助かる唯一の方法は「骨髄移植」でしたが、日本中で49万人近くいるドナー登録者の中に、移植に適した血液型の人が未だ見つからなかったのです(実際に、これまでの骨髄移植は二万二千を超えています)。「あゆみ」に対して周りは、「きっとドナーは見つかるから」と励ますも、本人はあきめかけていました。彼女を励まそうとしても、為すすべがありません。彼女の髪の毛が抗がん剤の副作用で抜け落ちてしまいました。「あゆみ」は、毛の無い頭を友達に見られたくないと、泣きました。それでも周りを悲しませないように、精一杯平静を装っていました。しかし病状が悪化してくると、不安感に耐え切れず、見舞いに来た担任の「野本」先生に「死ぬのが怖い」と泣きすがるのでした。担任は「死ぬのが怖いのはみんな同じだ」と言うのですが、「あゆみ」は「自分は何の為に生まれて来たのか解らない」と先生に訴えました。しかし、先生にもその答えは出せません。

やがて夏休みになろうとした頃、少し病状が回復して「あゆみ」は退院出来ました。クラスメイトは、夏休みにみんなで「三浦三崎」に旅行に行く事を彼女に提案します。最初は頑なに断っていた「あゆみ」も、両親と先生の勧めで一緒に行くことになったのです。しかし旅先で「あゆみ」は、髪が無い事でどうしても皆に解け込めません。そこでクラスメイトは秘密裏に頭を「丸め」てしまうのです。「あゆみ」の頭に合わせたのです。「あゆみの髪が戻るまで「みんな」が同じ条件でいよう」、これを提案したのは一番のワルだった「森山信一」でした。三崎での2、3日が「あゆみ」にとってどんなに「幸せな時間」であった事か! こうして幸せの時は終わりました。夏休みが終わると、病状が悪化した「あゆみ」は再入院しました。しかし、まだ血液の合致するドナーは見つかりません。北海道から、「あゆみ」の主治医で、「あゆみ」も本当に好きだった「三村礼子」先生が、北海道の「コスモスの花束」を持って見舞いに来ました。心から喜んだ「あゆみ」でしたが、もう命の限界が来ていました。彼女は先生と両親に自分の想いを語り終えると、静かに息を引き取ったのです。

これが、かいつまんだ物語の概要ですが、二時間半の演劇を簡単にはまとめられません。全編に渡って流れていたのは「思いやりの心」でした。クラスメイトの役を演じたのは、地元を中心とした高校生達でした。毎年入れ替わりで演じて来たそうです。彼らは相当情熱的にに演技練習(稽古)をしたようです。途中でチームダンスも演じられましたが、見事な出来でした。息もピッタリ合っていました。子供たち全員が頭を坊主にしたのですが、私は舞台のボウス頭の「カツラ」が本当に良く出来ているな、と思っていたのですが、本当は女子までが頭を丸めて坊主頭にしていたのです。最初の髪の長い場面の時がカツラで、坊主頭は本物だったのです。役を演じた学生達の情熱が伝わってきました。

「何の為に生まれて来たのか?」「本当の友情とは?」そんな事を考えさせられる作品でした。

沖縄、「うるま市」の高校生が演じた「キムタカの夢」(肝高の阿麻和利)の演劇を思い出しました。沖縄の高校生の情熱は素晴らしかったけれど、この「友情」を演じた学生達の情熱も素晴らしいと感じました。

もう一つ、ラジオドラマ「線路の向こう側」(芸術祭参加ドラマ)と言う作品にも触れたかったのですが、長くなりすぎましたので、次回に廻します。

(注:二週間程、ブログの更新を休みます)

栄枯盛衰

今回はラオスの話です。

ラオスには、いわゆる高級ホテルと言われる所は皆無に近いかも知れません。(例え有ったとしても、私には縁がないので情報不足で本当の所は解らない) そんな事を前提にして読んでください。ラオスのホテル(と言っても、ゲストハウスの域を出ない)の中で、私好みの宿が、「ラーカム」ホテルと「メコン・ムーン」インです。 

「ラーカム」ホテルは、ラオス北部のウドムサイ県の北東部の外れに位置する、「ムアンラー」と言うビレッジにあります。中くらいの川が、「ムアン・ラー」の村中を大きく蛇行して流れ、少ないながらも田んぼもあるし、かなり立派で由緒ある仏教の「寺」もあって、比較的豊かな村です。「ラーカム」ホテルは、その川が「U」の字を描くように曲がる外側辺に位置しています。この川はメコン川の「支流のまた支流」で、山中を蛇行しながら他の支流との合流を繰り返しながら、300Kmか400Km流れ下った後、「ルアンパバーン」でメコン川の本流に流れ込むのです。上流域部に位置するここ「ムアン・ラー」では、この川の幅は四、五十メートルくらいです。水深は比較的浅く、川の手前側の奥ゆき数メートルくらいは、深さは膝か腰くらいしかありませんが、川の半分より向こう側の水深は2m以上有りそうで、結構流れも速く薄緑色の水が流れていました。浅瀬の川底はスイカ程の大きさの丸い石が敷き詰められたように広がり、その大きな石の間には野球のボール大の石で満たされているような状態でした。私はこの風景を気に入っていました。以前、私は一度だけですがこの川に入りました。   

それは晴天の暑い日の正午頃の事でした。大汗をかき、へとへとに疲れていた私は、一人で短パン一枚だけの姿になって川に入ったのです。水は澄み切ってはいなかったけれど、手前側の浅瀬は水底が見える程度の綺麗さで、冷たくは無く水浴には丁度良い水温でした。私は用心の為、「危険」な流れの速い場所には近付かないように気をつけました。なので、水深が膝か腰程度の場所で川底の石を掴みながら、全身を「水草の心」にして、「流れに逆らわず、流されもせず」の姿勢で川に浸かっていました。水に浮かぶと流されそうなので、常に川底の石を頼りにし、同じ位置に留まっている事に注意を払っていました。

10分も浸かっていた時でしょうか、同じホテルに泊まっていた「夫妻」の「奥さんの方」が水着姿で川に入って来ました。50m以上離れていたので、顔までは見えなかったけれど、若くない事は確かでした。旦那は川岸で奥さんを見ていました。流されるのを心配していたのかも知れません。石の表面は黄土色の藻のような物が付いていて滑りやすく、油断出来ない状況だったのです。そうやって流れに任せて30分くらい浸かっていると、体の火照りが収まりました。   よろけながら滑る石の上を歩いて部屋に戻り、シャワーで体を洗い流しました。(ラオスのホテルは、何処でもそうですがシャワーには一応電気式の温水器が付いています)その時は、川で冷やした我が身に温水の温みが伝わって来て、心地よい気分で満たされました。この周辺は「リゾート地域」に指定されているのですが、10部屋程しかないこのホテルは、全室が川に面している平屋の細長い建物でして、どの部屋の前もコンクリートで固められたテラスが有り、その直ぐ前を川が流れていると言う「按配」になっていました。その夫婦は、同じ並びの幾つか先の部屋に泊まっていたようなのです。でもって、この夫婦以外、人の姿は全く見えませんでした。(時折、ロープも何も付けられていない放し飼いの水牛が、川原や部屋の直ぐ前の草むらにやって来て、草を食べていたけれど人間ではないですからね)

旅の疲れを感じていた私は、シャワーを浴びた後、部屋の窓とドアを開け放って風を入れ、素裸のままでベッドに横になって、川がせせらぐ音を聴いていました。体から疲れが「蒸発」して行くような感じがしていました。 が、その内にウトウトと眠ってしまったようです。「遠く響く川の音」だけが聞こえました。 洗い晒された古い木綿地のタオルケットとシーツ、粗末で素朴な調度品しかない殺風景な部屋、その上レンガ壁の古めかしい造りです。日本の「若い女性」や「都会派の人達」だったら「見向きもしない」と思える、そんなホテルでした。でも私にとっては「癒しの空間」であり「快適な空間」でした。

そんな事があった翌朝、そのホテルの「レストラン」で食事をしました。レストランと言っても、部屋から200m程離れて同じように川の前に在る、屋根だけの吹き抜けの建物です。そこの朝食は毎回同じでして、「コッペパン」とバター、ジャム、あとは目玉焼きと牛乳、時々はオレンジジュース、それから果物とコーヒーでした。涼風に吹かれながら川を眺めて食事をしていたら、昨日の夫婦もレストランに出向いて来ましたので、粗末な英語で話をしました。彼と彼女はフランスから来た人のようでした。旦那は学校の教師をしていたけれど、数年前に退職した後、世界のあちこちを旅する事を趣味にしているとの事でした。ラオスは非常に気に入った国で、過去にも何度か訪れたと言っていました。旦那が私に、「昨日は水浴びをして気持ち良かったろう!」みたいな事を言っていたので、こちらも「あんたも一緒に水浴をすればよかったのに!」みたいな事を言って笑い合いました。彼は「今日は川の向かいの道を徒歩で辿って、そこの奥にある集落を訪ねるのだ」、なんて事を言っていました。「そうか!それが西洋式の楽しみ方なんだ」と思うと、日本人である自分の「せせこましい体」の中にある、何とも言いがたい「惨めっぽさを秘めた姿」を想像してしまいました。

ところで、このホテルの「オーナー」なのか「管理人」なのか分かりませんが、何度か私を迎えてくれた「彼」、本当に親切な人だと感じました。朝食をテーブルに運んでくれた時の「物腰の柔らかさ」や、何度かあったのですが、こちらからの質問にも丁寧に答えてくれた時の「応対のし方」もそうでした。最初に訪れたとき、部屋で「WiFi」を使いたいが電波が届かないと言えば、この受付事務室を夜間でも使用できるようにしておくとか、「ポケットワイファイを貸して上げる」とか、飲む水は足りているか?とか、その気配りに対し大いなる感謝の念を抱きました。

ところで、今年もそのホテルをネット予約しようと試みたのですが、何度やっても「予約が取れた状態」になりませんでした。私は、ネット回線がトラブルでも起こしているのだろうと考え、予約無しで行くことにしました。そして自分の作ったスケジュールに従って、そのホテルを訪れたのです。

しかし、今年はどうも「様子が変」でした。そこには人が全くいないのです。以前は同じ場所に立った時、そのオーナーらしい人が笑顔で迎えてくれたのに、その時は迎えてくれる人の姿が全く見えなかったのです。今日は休業日なのか?と思って、事務室の前まで行きました、ところがドアには鍵が掛かっていました。事務室の横には車が駐車してあったので中には誰かいるのかと思って、ガラス越しに中を覗いたのですが、中は荒れていて物が散乱していました。改めて見ると、ドアには紙が張ってあり、ラオス語で何か書いてありました。でも全く読めません。私の想像では、このホテルは「閉鎖」したと書いてあったのだと思います。これも想像に過ぎませんが、このホテルは「倒産」してしまったのです。 以前もそうでしたが、このホテル「客が極めて少なかった」ようです。何も解らない私は、「ラオスではこの程度の客しか来なくても十分にやっていけるのか!」、と思っていたのです。でも何処の国だって事情はそんなに違うはずはありません。私は事務所を覗いた後、奥まった所にある、何度か泊まってたので「勝手知りたる宿の部屋」の前に行ってみました。周りの草は伸びていて、侘しささえ醸していました。急に、あの親切だった「彼」に合いたくなりました。 けれども、問い合わせる手段は何もありません。あんなに親切な対応で客をもてなしてくれてたのだから、「昔はさぞかし繁盛した」のだと思います。しかし、世の中の評価は厳しく、「客足が遠のく力」には勝てなかったのです。

何故か、私はこの出来事に「自分の姿」を重ねて合わせてしまいました。こちらの側が、どんなに「思いを尽くし、誠実に社会に接した」としても、「社会ニーズにマッチ」しなければ、結局は「世の中から無視され、消えて行く運命にある事」を実感しました。現代の世の中は、「例え『実』が無くても、綺麗で体裁が良いもの」、「面倒がなくて簡単に楽しめる事」、「ネットへの投稿で写真映えする場所」、「宣伝が行き届いて、誰もが知っているブランド品」このような事物でなければ、受け入れられないのかも知れません。

窓越しに撮った部屋に漂っていたのは、侘びしさばかりでした。

 

「化石燃料発電」「原子力発電」「自然エネルギー発電」、その4

今の状態で化石燃料を使っていたら、20年を待たずに地球の異常気象は「制御不能」状態になると思います。原子力は大きな自然災害を受けない限り「制御可能」です。しかし地球温暖化の問題は「炭酸ガス」に始まり、そのうちに「メタンガスの問題」へと拡大して行きます。そうなったら、「人類には手の打ちようがなくなる」のです。異常気象で毎年、何十万人、何百万人もの人が犠牲になるのです。「原子力災害」によって犠牲になった人々は本当に気の毒だと思いますが、まだ「国」や「周り人々」の力で支援が出来る範囲です。しかし「甚大な自然災害が世界中で起こるようになった時」、災害への救済支援は「不可能」になると思います。その時に人類は「絶滅の危機」に晒される気がします。

人類は「地球上に現れた最悪の生き物」だと私は思っています。事によると、絶滅したほうが、「地球全体の為」にはいいのかも知れません。

このテーマで長々と書き連ねましたが、ようやく今回で終わりに出来ます。  もし、きちんと読んで下さった方がいましたなら、本当に有難うございました。さぞかし読むのが大変だったのでは、と想像しています。 書いているこちらも、かなり疲れましたけれど。

ところで、最近、私は色々な意味で「現代社会」に反発を感じています。余りに「安易さを求める傾向が強い」からです。 このブログは「パソコン」書いています。パソコンのディスプレイ上での一行の文字数もそれなりに気にして、改行にも気配りしています。 ところが「スマホ」では「非常に読みにくい、もっと要約すべきだ」との批判を何度も受けています。昨今は、スマホを使う人が90%を越えているのだから、それに配慮すべきだ、との指摘です。確かにその通りでしょうが、このブログだって、パソコンを使えばずっと詠みやすいはずです。私は古いタイプの人間ですので、「自分の道は通す」つもりです。読みにくい点はお詫びしますが、今でもパソコンにこだわっている、数%しかいない「絶滅危惧種」を大切にしてゆきたいのです。どうぞご理解をお願いします。

ここで私の生き方、信条の一つを記述します。 私は「ガリレオ」や「ドンキホーテ」、方舟を作った「ノア」、これらの人達の生き方に好感を持っています。 但し、ガリレオの事は伝記でしか知らないし、ドンキホーテの小説をきちんと読んでもいないし、ノアに至っては「聞きかじりの域」を出ていません。 彼等の「生き様」を「ぼんやりとした感覚で捉えている」に過ぎません。自分の中にあるイメージとしては、彼らが社会から「異端視」され「嘲笑された」人物達だった、と単純に映っています。私自身は、彼等のように偉大では無いけれど、周りからは「奇人」にして「非常に扱いづらい人間」だと思われている感があります。その共通点から来るのでしょうか? 彼らに親近感を感じるのです。

私は多数決で物事を決める事に「強い反発」を覚えます。だから「民主主義」が最良の社会システムだとは思っていません。例えば、普通の人なら、明日の天気予測を「多数決」で決めてもじょうがない! と、当然そのように考えるでしょう。 それなのに、誰にも解らない「未来」の事を多数決で決めようとします。どうして「多数意見」が正しくて、その意見を採用する事が「最良の選択」と言えるのでしょうか? 「スマホを使うのが世の中の趨勢」だと主張する人々、 「風車に向かって戦いを挑む奇人を嘲笑した大衆」、「ノアは気が狂っていると言って笑った、聖書の世界の人々」、 世界は「常識人が支配してる」のです。 「大多数の意見を聞き入れないで、自分の信じる道を行く、一握りの人達」。 私はこちらのグループに所属していたいのです。もっとも「ガリレオ」は、宗教裁判にかけられ地動説を引っ込めた後で、「それでも地球は動いている」と言ったと言い伝えられていますけれど。 私は周囲から袋叩きに会った後に、「それでもパソコンの方が良いのだ!」「それでも原子力発電は必要だ!」「一番良いのは潮汐力発電だ!」と言いたいのです。

私は以前から「地球規模の異変」に強い危機感を抱いて来ました。闇雲に「原子力発電反対を唱える人々」よりも、私の危機感の方ががずっと強い気がします。

「化石燃料発電」「原子力発電」「自然エネルギー発電」、その3

「原子力発電」は危険なばかりでなく、「核のゴミ」の始末が出来ないではないか、とよく言われます。私も全くその通りだと考えますが、私は「核のゴミ」は地中深く穴を掘って埋めるしかないと思っています。つまり原子力発電は未来の人類のとって「負の資産を残す」と言う事です。

しかし、化石燃料で出るゴミである「炭酸ガス」はどうでしょうか?「炭酸ガスは」は圧力を加えて地中へ押し込む、なんて研究があるようですが、地震が来たら岩盤の隙間から漏れ出さないのか心配です。つまり地中に押し込む事には危険が伴います。ではどうすれば良いのでしょうか? 今のところ有効な方法は有りません。時間をかけて、海水に解け込むのを待つか、植物が吸ってくれるのを待つかしかありません。「炭酸ガス」は「核のゴミ」以上に始末の悪いゴミ、「負の遺産」だと考えています。地球の大気中に拡散してしまった「ガス状のゴミ」を回収するのは不可能です。

近年の温暖化、「異常気象」は「化石燃料を使用した結果のゴミ」がもたらしている公算が大きいと言われています。様々な研究で、地球の温度上昇が「一定レベル」に達すると、それまでに蓄積されて来た熱による「相乗効果」が現れ、地球全体の温度上昇が加速され急激になる、との報告があります。近年の異常気象はまだ「序の口」であって、この相乗効果が顕著になり始めたら気温の急上昇は留まる事無く続き、それは生物の生存環境を破壊し、延いては「食料問題」に発展して行きます。特に「メタンガス」の大気中拡散が拡大し始めたら大変です。

だからこそ、「再生可能エネルギー」でなけばならないだ! と「知識人」は言いますが、でもそう簡単には実現できません。実現が困難なばかりでなく、問題もあります。風力発電設備は巨大であっても局所的ですので、廃棄はそれ程問題ありませんが、しかし太陽光発電所は膨大な面積を使ってこそ成り立つ設備です。パネルは「紫外線の影響」などで劣化します。結果、莫大な量の太陽光パネルが2、3十年で交換が必要となり、廃棄の時を迎えます。もうそろそろ耐用年数が過ぎたものが出始めました。ところが、太陽光パネルの廃棄処分は簡単ではないのです。まだ効率的な廃棄処理の方法は確立されていません。なので、太陽光パネルの「廃棄処分の問題」が環境問題になります。それに太陽光パネルの製造には沢山の電力を必要とします。交換に必要な大量のパネル製造には「大量の電力」がいるのです。すなわち、一見「理想的」だと思われている方式にも「すぐに表面には現れて来ない、重大な問題」を含んでいるのです。

もう文化的生活に慣れてしまった人類は、今更エネルギーの消費量を減らすことは出来ません。どうしても「発電」は必要不可欠な条件です。では、どうすればいいのでしょうか?

私は原子力発電「賛成論者」の一人ですが、「原子力エネルギー」は根本的に良くないと思っています。良くないけれども、どうしても必要です。「化石燃料発電」から「自然エネルギー発電」へと「エネルギー転換」が可能になるまでの間は、「つなぎとして、どうしても必要な発電方式」だと思っているのです。当分の間は「化石燃料発電」と「原子力発電」に頼らなければなりません。

将来の事は誰にも解りませんが、私なりの考えを記述します。現在、ラオスなどの河川が多い山間部を有する地域では盛んに「ダム建設」が進められています。政治的な背景はともかくとして、ダム建設は「水力発電」をするためです。ラオスではダムの決壊事故も起こりましたが、小規模の水力発電は可能な限り開発するのが望ましいと思います。しかし、「大河の本流」に「巨大ダム」を建設する事は、多くの検討を重ねた上でなければならない事は、前回記述しました。

水力発電は最初に行われた発電の方式ですが、「自然エネルギー発電」には違いありません。「新式の自然エネルギー発電」に関しての私の考えは、太陽光発電を、「森林地帯」や「農場」「牧場」のような土地や、「港湾」や「湖」などの「水面」では行わない方が良いと思っています。それらの地域では、「土地」は発電に使用するのでは無く、「食料生産」や「資材生産」をすべき場所だと考えます。「太陽光発電」や「太陽熱発電」は「砂漠」で、海洋では「洋上風力発電」、海峡で「潮汐力発電」を行うのが良いと思っています。「地熱発電」が有力だと言われますが、私は問題があると思っています。

電力エネルギーの「生産場所」と「消費場所」が離れている事になると、何百キロも何千キロも電力を送らなければなりません。何百キロかを高圧送電線を使って電力を送る事は妥当でしょうが、何千キロもの高圧送電には「送電ロス問題」が顕著になります。「お天気任せエネルギー」の不安定さをカバーするためにも、電気エネルギーを別形態のエネルギーに変換した方が良いと思います。現在は電気を「水素」に変える研究が最も有力です。水素を長距離送る為の「水素パイプライン」の研究も必要です。水素を液化して船で運搬する事は現在でも可能です。つまり、電気を水で分解して、順次「水素」に変えておき、水素をパイプラインか船で輸送します、その「水素」を消費地で「元の電気に戻す」とか「水素自動車」の燃料にします。問題は「エネルギー変換」は「常に変換ロス」が出る事です。ですので「変換効率」が非常に重要な問題となります。将来「自然エネルギー」を主力とするには、エネルギーの「高変換効率装置」開発と蓄電用「高性能バッテリー」の開発は、どうしても解決しなければならない課題です。

私が考える最良の発電方式は「潮汐力発電」です。潮汐とは潮流とは異なりまして、「月の引力」と「地球の自転」がもたらす「潮の満ち引き」でして、この力を利用して発電するのです。海峡などの海中に巨大な水車を設置するのです。 場所によっては干満の潮位差は数メートルもあります。「関門海峡」や「鳴門海峡」は瀬戸内海の海水が行き来するのだから相当のエネルギー量を持っています。このような地形は世界中に沢山あります。潮汐力は毎日定期的に発生しますから、連続発電は無理だとしても、かなり安定した電力が得られるはずです。 発電効率を高める為に、可能ならば「海峡」や「湾」の狭まばった海域に巨大な水門を設けます(海水を遮断する為にではなくて、流れを狭ばめ潮の流速を上げる為に設ける)。1日に2回の潮汐があるので、往復の流れを利用すれば、1日に4回発電のチャンスがあります。「潮汐発電」は私が描く一つの「妄想」に過ぎませんが、これも環境への影響の検討が必要です。大規模に潮の流れ道を変更する事が環境にどの様な影響をもたらすのか、予測しなければなりません。海峡を通過する潮汐の中に水車を入れて流れを邪魔するのだから、多少は「地球の自転が遅くなる」かも知れません。しかし、これは取るに足らない問題です。千年間に1000分の1秒位は「地球の自転」が遅くなるかも知れないですが。

次回へ続きます。

「化石燃料発電」「原子力発電」「自然エネルギー発電」、その2

エネルギー問題についてですが、「自然エネルギー」とか「再生可能エネルギー」とかをもっと普及させ、循環型社会を創れば良いのだ。このような社会だって、その気にさえなれば十分実現が可能なはずだ。「有識者と言われる人達」はすぐにこのような発言をします。でもこれって、本当にそうでしょうか?

「言う事」と「実際の行動」のギャップが大きい人、具体的に言うならば、「自分が、日々の生活では資源の無駄遣いを沢山して、文化的暮らしにどっぷりと浸かっていながら」、外部に対しては「省エネ生活は重要だ、資源はリサイクルしなければならない」と主張している人、このような人が沢山いると思います。 言い換えれば「洗う手間を省くのだ」と言って、使い捨て食器を大量に使っているような人達です。このような、「自己矛盾」を意識することなく「省エネ、省資源を叫んでいる事」それこそが問題だと私は思います。もしそれらの人達が、「自己矛盾を抱えている事には目をつむり、自然エネルギーを崇拝している人」だとしたら、それは「偏重した自身の知識」が「自己を正義の味方」だと思い込ませているような、単なる「幻想崇拝者」に過ぎないと、私は考えています。

「エネルギー保存の法則」と言うのを「物理」の時間に教わりましたが、エネルギーを生み出す事は副産物である「ゴミ」を生み出し、「エネルギーロス」を発生させるのです。「パワーを生み出す装置」を造るは相応のエネルギーが必要だし、「高密度の高品質エネルギー源」を生成するには多くの「エネルギーロス」を考えなくてはなりません。それを計算に入れず、その装置が発生するパワーだけに注目し評価する事は問題です。最たる例が「電気自動車は、全く炭酸ガスを出さないから理想的な車だ」とする考えです。電気自動車で使う電気がどうやって作られるのか?それを計算に入れていないのす。エネルギー保存則を考慮に入れて、「システム」として総合的に捉えないと、危険な「落とし穴」に陥る危険があります。現代社会は多種多様の分野が複雑に絡み合っていて、単純に一方向からの視線だけで見ると、大きな問題点を見落とす結果となります。

良く聞く話の中に、「これまで電力会社は隠してきたけれど、原子力発電なんかしなくたって、十分に発電量を賄えるのだ」と言う事柄があります。そんな事は当たり前の話で、原子力発電「賛成派」だって知っています。「原子力発電」の分を「化石燃料」で発電すれば良いだけの話です。「化石燃料発電」をどのようにして減らそうかを議論している時に、そんな当たり前の話をしたって、何の意味を持たないのです。このように反発すると、それなら「太陽光発電」だって「風力発電」だってあるではないか、とこれらの「知識人」は言いますが、大半の自然エネルギーは「お天気任せ」の「不安定エネルギー」なのです。不安定な発電所には「バックアップの発電所」が必要です。それは今の所「化石燃料発電所」「原子力発電所」「水力発電所」以外には有りません。但し、水力発電所は貯水量の制約を受けてしまいす。そして、未だに太陽光発電はコストが非常に高いのです。知識人は「コストの問題は技術が進歩すれば解決できる」なんて簡単に言いますが、技術者が血のにじむような努力を重ねていても、簡単には行かないのです。「技術の進歩は簡単」だと思っているとしたら、「技術者」に対して礼を欠いた考え方になります。

世界中で、技術者、科学者、政治家、多くの知識人が知恵を出し合って、新たな巨大プロジェクトに挑んで来ましたが、大自然の前には歯が立たなかった事もしばしばでした。「自然エネルギーの活用」もその範疇に入り、自然環境を変えてしまうような開発には「特段の注意」が必要で、人智の及ばない影響をもたらす危険が有ります。「恩恵」と「弊害」を予測する事には限界が有ります。

中国の「三峡ダム」がその際たる例です。三峡ダム建設には自然環境の変化に対する多くの懸念が投げかけられ、世界中が注目していました。中国政府内にも反対がありましたが、結局エネルギー確保の重要性が優先され工事が着手されました。そして、中国政府は威信を賭けてダムを完成しました。完成後、発電量は徐々に高められて行き、数年前に32機全ての発電機が稼動し、水力による「世界最大の発電量」を記録しました。この電力量は標準的な原子力発電所10箇所分にも相当するものでした。このダムによる水力発電で、年間5400万トンにも上る「炭酸ガス排出量」の削減が図れる、との試算もありますこのようにして世界最大の三峡ダムプロジェクトは完結したかに見えました。

しかし、多きな問題も発生しつつあります。まず、「ダムの決壊」が懸念されています。一説ではこのダムが決壊すると、長江の出口に位置する大都市「上海」が洪水に見舞われ、二年間は機能不全に陥るとも言われています。ダム湖に流れ込む土砂は膨大で、数十年後には貯水量が半減すると言う説もあります。直近の問題として「ダム湖周辺の崖崩れ」が多発し、住民が避難しなければならない事態もかなり起きています。更に、周辺都市から処理されずに流れ込む「汚水」や「ゴミ」の為に、ダムは「汚水溜め」の体をなしているとの悪口もあります。

自然エネルギーの開発には細心の注意が必要なのです。

次回に続きます。

「化石燃料発電」「原子力発電」「自然エネルギー発電」、その1

私は時代の流れについて行けなくなったようです。いやついて行けないのではなくて、「時代の流れについてゆきたくない」が正しい言い方かも知れない。  こんな感情を持つ人って結構多いのではないでしょうか? 『21世紀』は夢のような時代になる、こんな事を「20世紀の終わり頃」評論家や学者が盛んに言っていたような気がします。でも蓋を開けたら「何とも変な時代がやって来たものだ」、こう感じるのは私だけではないはずです。

世の中から「人情」と言うものが薄れて行きます。会話が消えつつあります。隣にいる人ともスマホでメールのやり取りをします。自分で考える事を停止してしまい、何でもかんでもスマホで調べます。借り物の知識だから身についていない、直ぐに忘れてしまいます。忘れたらまた調べればいいのです。人間関係が浅くなり、表面ばかりの付き合いになって行きます。その方が面倒が無くて良いと思っている人が、どんどん増えています。そんな事がある「現象」にすら関心を持たないのですから、何という世の中なんでしょう。

世界中で内戦が起こり何百万人もの難民がさまよっています。色々な理屈をつけて、「専門家」と言われる評論家が「テロが起こる背景」を説明していますが、そんな説明が何の役に立つのでしょうか? 現にテロ事件は絶え間なく起こっていますしね。 そして日本では、いわゆる「愉快犯」と言われる、単なる嫌がらせとしか思えない悪質な犯罪である、「放火」や「器物の損壊」が横行しているし、理由がないのに他人を傷つける、「気晴らし殺人」が毎日のように報道されています。「愉快犯」は例え軽犯罪であったとしても、重罪人として扱うべきだと、私は考えます。

その上に世界中で、復旧する間も無いほど頻繁に自然災害が次々と発生しています。これ等が「20世紀に語られていた未来像」とは余りにもかけ離れている、「21世紀の現実の姿」です。

自然災害の中でも、「地震」や「火山の噴火」は地面の下の出来事、人間の力ではどうする事も出来ない現象ですが、「巨大台風」「大干ばつ」「森林火災」「大洪水」「猛暑」は、「人類の驕り」に起因している処が大きいのでは、と私は考えています。近代文明は化石燃料を大量に使用する事で築かれて来ました。

ところで、日本では原子力発電「反対」の大合唱があるにもかかわらず、私は「原子力発電賛成論者」の一人です。何故なら「原子力発電」がもたらす「不幸」よりも、「化石燃料発電」がもたらす「不幸」の方が「遥かに大きい」と考えるからです。

江戸時代のように電気も自動車もなく、人の糞尿まで商品として取引された「高度のリサイクル文化」、そのような「生活様式」を現代に呼び戻す事が可能ならば、それも良いでしょう。私もそんな不自由な生活に憧れを持つこともありますが、実際にそんな生活をしなければならないとしたら、私は一日だって耐えられないと思います。だから素朴で質素な「超リサイクル社会」なんて世界は、憧れに過ぎず、机上の空論に終わる事でしょう。

次回に続きます。

「親友」は「ライバル」でなければならない!

夫婦関係が50年になると「金婚式」と言うのをやるらしいけれど、友人関係が50年になったら何と言うのでしょうかね?結婚の場合は「1年目」の「紙」から始まって「70年目」のプラチナまで、様々な宝石や貴金属の名前が連らなって出てきます。この風習はイギリスに始まって明治時代に日本に伝わったらしいです。  ところで「友人関係」の場合はもうチョット科学的に行って「原子番号」かなんかでやったら良いと思います。一周年目は「水素」です。二周年は「ヘリウム」50周年は「錫」スズです。原子番号は「オガネソン」と言う「118番」になる元素で終わりです、これ以上番号が大きい元素は無いのでここで友人関係も打ち止めですが、人類史上この年まで続いた関係は無いので問題はありません。 ところで私の古い友人との関係は「55周年」になるので「セシウムの関係」です。福島の原発事故で悪名が高くなった「セシウム」は同位元素と言うのが何種類かあるけれど、「Cs」と表記されます。来年は56周年だから「バリュームの関係」になります。このやり方は一見良さげに見えますが、大きな欠点があります。79周年が「金」、78周年が「プラチナ」47周年が「銀」となって、夫婦関係の呼び名と重なってしまいます。混乱するから不採用となるでしょうね。 ちなみに、「鉄」は26周年ですし、ダイヤモンドの素である「炭素」は6周年です。と言う事で、感覚的にもしっくり来ないですね。

考えてみれば、100年くらいの数字を「物に置き換える」のは結構難しいですね。干支は繰り返しだから駄目ですし、「マージャンパイ」だって「花札」だって大した数にはなりませんしね。

そんな事はどうでもいい事なのですが、私の「セシウム仲間」が先日「書籍」を出版しました。若い頃は「赤ひげ」のように逞しく伸びていた髭、最近は白髪も混じって、実に寂しくなってしまいました。酒を飲んだ時の態度は、もし髭が無かったなら、「フウテンの寅さん」そのものみたいなところがあるのです。容姿は「70歳の赤ひげ」かもしれません。昔はいつも、妹の「さくら」が「お兄ちゃんがまた迷惑掛けちゃってすいません」と、あちこちに 頭を下げて歩いたのと同じ姿で、謝って歩いていました。が、しかし、その「彼氏」が出した「著作」を読んだ人は、「寅さんの雰囲気なんて何処にも無いよ!」と思うかもしれません。憎めないところだけは「寅さん」に似ているけれど、これでなかなかの苦労人でして、「根っこの部分」は「それなりに」真面目なのです。

私がいつも彼氏に言っていた事は、「この世で、お前と張り合える人間は俺しかいないし、俺と張り合える人間はお前しかいない」、そんな言葉でした。だから我々は「死ぬまで」張り合っていなければならないのです。中学、高校、大学、全部同じところでした。会社を引退したのも同じ年だったし、彼氏がカンボジアに学校を作った年に、私は人助けが出来ないものかと思ってラオスに行ったのです。こんな風に書くと相談してやったように見えるでしょうが、実は進路について話し合った事など一回も無いのです。全く偶然にそうなっただけなのです。

もう随分昔の話になりました。30年くらいになるかも知れない。彼氏が交通事故で死に損なった事がありました。その知らせを聞いた時、勿論私は「大変な事が起こった」と思ったのですが、もしも「あいつ」が死んだらどうなるだろう?と考えました。あいつが死んだら「多分」悲しいだろう、そうは思ったけれど「悶え苦しむ程の悲しみは無いだろう」、と思いました。それよりも「自分に残されたこれからの人生、きっと長いだろうな~」そんな感覚でした。あれから30年、まだ彼氏は「相も変わらず」寅さんをやっていますけれど、「これで良いのだ!」と思っているところです。

昔の漫画に「あしたのジョー」と言う傑作がありました。シリーズ最後の方に「矢吹 丈」と「力石 徹」との死闘の物語があります。「力石」は「ジョー」よりも体重が何階級も上だった為に、そのままでは試合が出来なかった。しかしライバル意識に燃えていた「力石」は、試合をする為に過酷な減量を重ねたのです。そして、ついにジョーとの対戦が実現しました。力石の武器は強烈な「アッパーカット」、ジョーの武器は「クロスカウンター」でした。試合は両者が譲らない壮絶な戦いになったのですが、力石の強烈なアッパーカットがジョーの腹に入りジョーがダウン。ジョーを育て上げた「丹下段平」がリングサイドから「立てジョー!、立つんだジョー!」と怒鳴ったにもかかわらず、ジョーは立ち上がれませんでした。ノックアウトされたのです。しかし「ジョー」の激烈なパンチを食らっていた「力石」は、過激な減量が祟っていた事もあって、試合直後に死んでしまいました。この話は当時余りにも有名になって、ファンによって「力石」の葬式が行われまして、新聞紙上を賑わせたほどでした。

その後、ジョーは「ライバルの力石」がいなくなってしまった事で「腑抜け状態」になったしまったのです。丹下段平の必死の説得でジョーは復帰を果たし、連勝を重ねるようになったけれど、「力石の死の影」はジョーから消えることは無かったのです。それがトラウマとなって、ジョーは何としても相手のテンプル(こめかみ)へのパンチが出せなくなってしまっていました。

人間が力強く生きて行く為には、どうしても「良きライバル」が必要だと思います。ライバルのいない人生は寂しく空しい事でしょう。私のライバルである「セシウムの寅」もう70年も生きているから、時に力を失ってしまうことがありました。そんな時、私は、「立て寅!、立つんだカズナリ!」と内心で叫んでしまっています。もっとも、どっちが「ジョー」でどっちが「力石」なのかは、分かりませんけれど。

無謀なる挑戦

私は無謀な挑戦ばかりしています。「無謀なる挑戦」とは出来そうもない事に挑む事ですが、それは若い頃からの私の一種の「癖」です。これは単なる癖だから、「何故そう言う事をするのだ?」と言う問いには答えようもありません。 でも、私は目の前に立ちはだかる「難しそうな事柄」にぶつかると、反射的にアドレナリンが噴出して来て興奮状態に陥るような気がします。この一見「出来そうにもない事」に挑む事は、自分の好奇心を満足させ、小さな生き甲斐にさえなるような気がします。

私がまだ若かった昔は、主に仕事に関わる事で「無謀なる挑戦」を何回もしました。思い返せば優に20種類くらいの仕事に挑んで来ました。まだ二十歳代前半の電気会社に勤めていたころ、私は「送信機」の設計をしていました。約45年前当時、「船舶用の送信機」には「リレー」なる電気部品が沢山使われていて、無線機を操作すると内部でリレーの動作音が「ガチャガチャ」としていました。私は「音のしない送信機」を作りたいと思って、上司に申し出たところ、「じゃあお前がやってみろ!」と言われその気になって挑みましたが、なかなか上手く行きませんでした。私は、本当に未熟でした。リレーを使わない事には、原理的な無理があるのを知らなかったのです。それが技術屋としての苦労の始まりでした。(現在は無線機を操作しても、送信機の中で「ガチャガチャ」なんて音はしないのは当たり前になっているのにね)

その後、家業の「高圧ガス関連の仕事」に就いたのですが、そこでも「無謀なる挑戦」は収まりませんでした。防災関連の仕事で「防油堤」なるものを設計し施工もしました。ガス関連の仕事には違いなかったけれど、これは「土木の分野」の仕事です。地震でガスタンクが破損した時、タンクから漏れ出たガスをタンクの下に止めて置く「枡状の堤」の建造です。二社から受注し、工事もしました。消防署の検査を受けたりして、大変な苦労をしました。「ディズニーランドの仕事」などイベント関連の仕事も本業とはかなりかけ離れていました。これは「炭酸ガス」を使うと言う事だけがガスと関係した仕事なのです。アメリカに行ったのは「飛行船」を作る為でした。本業と多少関係していた部分は、「飛行船を浮かばせる」為に「ヘリウムガス」を使うと言う事だけでした。マレーシアに行って「木工事業」に挑戦したり、ドイツに行ったのは「資源のリサイクル装置」の開発に挑戦したからです。まだまだここでは取り上げ切れない程、色んな事に挑戦して来ました。現在はラオスに行って、「薬草のお茶」を作る「ハーブティーバッグ」の製造販売に挑戦しています。挑戦したビジネス全てで、「一応の完成」は見ましたが「成功とは言い難い」ものばかりです。全く利益に結び付かなかったのです。製品として完成はしたものの「商品としての完成度が低いのと、コマーシャルが出来ない」為に、販売まで漕ぎ着ける事が出来なかったのです。周りから、「お前のやっている事はビジネスでは無くて、単なる道楽に過ぎない!」痛烈な批判を浴び続けました。「私には私なりの理屈」があって反論はしたものの、「大きな金銭的損失を残した事実」は認めざるを得ませんでした。

これらの事は業務の上の話ですが、最近は「仕事の最前線からは退いた」ので、もう少し「趣味」に類する事に挑戦しています。しかし、これらの事だって「無謀なる挑戦」には違いありません。約半月程前からですが、「編曲」、言葉を変えるなら「曲のアレンジ」に挑戦しています。「音楽の基礎知識を全く持っていない身」でありながら、編曲に挑戦などとは「馬鹿な事を始めたものだ」と嘲笑われそうです。きっかけは、私が数年前から「ハーモニカ演奏」を習い始めた事にあります。そのグループ内の仲間内で、お粗末でも「素人バンド」を作りたい、との意見がまとまって練習を始めたのです。ところが気が付けば、世の中には「ハーモニカの為の合奏用譜面が極めて少ない事」が解りました。「世の中に無いものは、自分で創るしかない」、これも私の信条の一つですが、この信条と「目の前に立ちはだかる壁に立ち向かいたい、と言う挑戦意欲」が重なって、どんどん願望が大きくなりました。そしてついに、「編曲」に挑んだという訳です。実は、ずっと以前からの事ですが、私は「プロの編曲者」の素晴らしい感性と、仕上がった音楽の出来栄えに触れた時、「さすがは専門家だ!」と、その「アレンジ」の面白さと、その「偉大」さに感じ入って来ました。「自分も編曲の真似事をしてみたい!」、そう思ったらもう「歯止めが利かなくなる」のです。これが私の「癖」なのです。私は色んな音楽のレコードを聴く度に、メロディー(主旋律)よりもむしろ伴奏の方を聞き取ろうとする傾向が強いのですが、プロのアレンジでは、曲のイントロが始まると様々な楽器を動員して、まるで「脇役」が「主役」を引き立てるように、メロディーを伴奏が飾り上げます。私はその伴奏に聞き入ってしまうのです。

では私が編曲したものはどうでしょうか?

やはり未熟の感は拭えませんね。でも、私には気の利いた旋律がなかなか思い浮かばないのです。残念ながら時間をかけた割には「ダサイ」曲にしかなりません。でも、私自身は「自己満足」する事が出来るのです。この曲のアレンジは、「世の中にこれしか存在しないのだ」と思うと、「ダサイ」アレンジでも、楽しく聞けるからです。このアレンジの曲を仲間内の「お粗末なバンド」が演奏出来るようになるのは、いつの日の事でしょうか?

安心感が欲しい

今年の「防災の日」は9月2日でした。「地震、カミナリ、火事、オヤジ」恐いものの代名詞から「オヤジ」が外されて久しくなったけれど、最近は「地震」「洪水」「台風」「火山」でしょう。毎週、まるで日替わりメニューのように自然災害のニュースが繰り返されています。今夏はそれに加えて「猛暑」が自然災害に加えられました。事によったら、この冬は「豪雪」も仲間入りするかも知れません。と言っても豪雪地域の話ではなく平野部(都市部)に降るかも知れない大雪の話です。このように、日本は世界に類を見ないほどの「災害列島」です。

この日は「あちら、こちら」で行われた防災訓練の模様がニュースとして流されましたが、我が地域でも「避難所運営委員会」なる組織の催しが有り、防災への備えが検討されました。私は「自治会長」の立場ですので参加を余儀なくされました。我が地域の避難所に指定されているのは小学校、この避難所の想定受け入れ可能人数は1000名です。それに対して避難対象となる戸数は約2000戸、住民にすれば約5000名です。ところが、原則として「避難して来た人全員」を受け入れる方針ですので、帰宅困難者を含めると対象は優に10000名を越えるかも知れません。そうなると受け入れ可能人数の10倍です。とても対応できるとは思えませんでした。ですから、私は当所この「避難所の運営計画案」には反対でした。だもので、運営委員会への出席も渋々了解した訳です。

実際、運営委員会の会議をサボってしまう事も出来たけれど、「物事を先入観で判断してはならない」、これは私の信条の一つですので、とりあえず出席してみました。でも、結果的には参加して良かったと感じました。それは、「盆踊り大会」の開催準備のときにも感じた事ですが、参加者はどの人も熱意を持っていました。その姿に接する事が出来たからです。皆さん、小学校の体育館で作業する事に労を厭わなかったのです。私には「ボランティア活動」など出来ようもありませんが、「このような人達がボランティアをするのか」と、その時思いました。またしても、「世の中捨てた物ではない」を実感したのです。

ところで本題ですが、災害が発生する度に「自衛隊」や「消防隊」「警察隊」が出動して救難・救護活動や災害の復旧活動をしているニュースが流されます。その後を引き継ぐように、「ボランティア」が活躍している姿が映し出されます。こちらは茶の間で見ているだけしかしないので、全く「安易」です。それに比べたら現場での悪戦苦闘は想像するだけで身が引き締まる思いがします。自衛隊員はそれが「任務」だから、と言ってしまえばそれまでですが、現地の受難者にしてみたら、彼等は力強い「神様」のような存在に見えたのではないでしょうか? ボランティアの働きだって同じです、その人達は自由に楽しめる自分の休暇をつぶして、「人の為に尽くしている」のですから。

今回の自民党総裁選に立候補している「石破」衆議院議員が、「これからは『防災省』?のような組織の設置が必要だ」と訴えていましたが、私も同感です。 国家間の対立に関わる問題は「防衛省」が担わなければなりませんが、「自然災害」に対処する為には独立した「別組織」が必要だと思います。私は「徴兵制度」には絶対反対ですが、「災害復旧隊」への「入隊義務化」は必要だと思っています。

「防災省」組織の中に「災害救難隊」と「災害復旧隊」を設置しますが、「救難隊」は自衛隊と同様に「志願」によるものとします。大きな危険を伴う「命がけの救難活動」は、長期間の専門的な訓練を受けている隊員でなければ「到底無理」だと思います。けれども、災害が発生してしまった後に行う「復旧作業」は、大きな危険を伴うものではありません。ですので、「国民の義務」として「召集」された人達で構成される「災害復旧隊」が補完する事とします。

私の考える所は、成人年齢に達した全日本国民に、一定期間(2年程度)「災害復旧隊」に在籍する義務を負わせるのです。但し、身体的、精神的な障害がある人は症状に応じて設定した、別の制度を設けます。障害の無い人は、18歳から約40歳までの間の約20年の内、2年間程度を在任期間とします。つまり全ての国民は、一生のうち約2年間は「災害復旧隊員」として働かなければならない事として、義務化をするのです。ただしこの約2年間の勤務は、連続して行う事だけではなく、数回に分割して従事する事も可能とします。「災害復旧隊員」には、最初の約1年間に「教育と訓練」を実施します。次の約1年間は、災害現場へ出動して「復旧活動を行う義務」が課せられます。なお、この「災害復旧隊」での在任期間中は、「国家公務員として待遇」し「給料」が支払われます。つまり、「ボランティア活動」としてではなく「プロの災害復旧隊員」として待遇される訳です。ですので、「プロ」である彼氏等や彼女達には、当然のこととして、「気にそぐわない辛い復旧活動」も拒否する事はできません。この「災害復旧隊」の組織としての役割は、災害復旧作業の「補佐役」(主役は災害救難隊が担うし、自衛隊、消防隊、警察隊も主要な活動をする)として重要な位置を占めるばかりでなく、活動を通して「きちんとした人間関係」を構築する為の訓練にもなるし、「自立心」や「社会性」を養う貴重な体験の機会にもなります。従って余程の事情が無い限り、就任時期は十代、二十代とした方が良いでしょう。

このように「災害復旧隊員になる事は国民の義務だ」などと記述すると、「自由主義」を唱える人達から「強い批判」を受けるかも知れません。しかし、逆に私はその方々に、「自分達の安全と社会の秩序は、誰によって確保されていると考えているのか?」と問い掛けます。「安全や安心」は自然に生まれてくるものでは無く、「一部の人の大変な努力と苦労」によって作られているのだ、と私は思っているからです。「自然災害からの復旧の苦心や苦労を、なるだけ多くの人で分かち合って行くのは当然の事」だと考えます。

私はこのような構想を抱いていましたので、「町内会の集まりで行う防災活動」には大した意味を感じていませんでした。でもその感覚は誤りだったように思います。結果はどうであれ、「地域の人々が助け合って自然災害に立ち向かう意識」こそ重要だと考えました。

 

暑い夏が終った

昭和20年8月15日、昭和天皇のいわゆる「玉音放送」があり、大東亜戦争が「敗戦」となった事が国民に伝えられました。正式な終戦はその半月後でした。日本が無条件降伏した後なのに、ソビエト軍は千島列島を守備していた日本軍を攻撃して来たのです。日本軍はこの地域はでは「まだ兵器を温存していた」ので十分な戦力があったにも関わらず、反撃することを禁じられていました。この列島では、夏が過ぎてもまだ戦争は終っていなかったのです。この事実を作家の「浅田次郎」が小説『終らざる夏』として作品にしました。

今年は「残暑見舞い」の季節に入っても、まだ盛夏が続いています。気象庁は相変わらず酷暑を予測し、まだまだ夏は終わりにならない予報を出し続けています。でも、「私の夏はようやく終了した」の感があります。この夏、私は忙しい日々を送りました。元来、私は直射日光に弱い体質ですが、それでも幾つかの「炎天下でやらざるを得ないお役目」があって、無理をしました。その為でしょうか?熱中症になってしまいました。吐き気がし、横になって体を冷やさざるを得なくなったのは一回だけですが、何度か寸前のところまで行きました。何度も同じ轍を踏む「愚か者」になりたくなかったので、寸前で休憩を取り、助かりました。こうして、私の夏は過ぎ行き、屋外で作業をするような「お役目」は終りました。 だから、私の夏は終ったのです。

我が邦の地域で開催される「盆踊り大会」、その実行委員を務めること、それが私にとって、この夏一番のお役目でした。もっとも、私は「新米の下っ端」だから指示されるままに動いただけなのですけれど。中には、その仕事を20年も担っている人が結構いるのです。たいしたもんです。

私も「若い頃」は、様々な「夏のイベント」に参加し、よく動きました。でも、当時は熱中症なんて考えもしませんでしたし、具合悪くなった事も有りません。 振り返れば、ディズニーランドが「グランドオープン」したその年の夏、「レーザーショー」と言われたイベントが始まりました。これは夜間のパレード、「エレクトリカルパレード」の前身です。私は「特別効果係」スタッフの一員としてシンデレラ城などの屋根に上って、悪条件下での作業をしました。それからもうひとつ、これも二十数年前になりましょうか、幕張メッセの浜で行われた「都市緑化フェアー」では「飛行船」を作り、フェアを盛り上げる役割を担いました。

どちらも「真夏の約一ヶ月間」のイベントでした。「ディズニーランド」でも「幕張メッセ」でも「風」との戦いでした。風速が3、4メートルになると、もうどうにも制御が効かない状況なのに、海岸だから直ぐにそれくらいの風は吹きました。しかし、「上手く行かなくて、恥をかく事を覚悟の上」で、実行せざるを得ませんでした。本当に苦労の連続でした。でもお陰で、今ではそれらの事が私の「語り草」になっていますし、「数少ない自慢話」でもあります。その仕事、「設計」やら「機器の試作や製作」やらで、数ヶ月も前から準備作業に入ったのです。だから、その年は日焼けで真っ黒になった上に3、4キロは痩せました。やはり若かったのですね、それとも「苦難」続きで「緊張」していたせいでしょうか? そのイベントが終るまで、私が倒れることは有りませんでした。

ところで、「中小企業家同友会」と言う全国組織が有りますが、私は三十数年間、千葉県の会員として在籍しています。昔、その組織で「納涼大会」なるものを数回やりました。ある年、私は「納涼大会の企画係」を担当しました。だもので、初夏から約1ヶ月間くらいは、「仕事を投げ出し」て準備をしなければならい羽目になりました。 

さて、今年、盆踊りの準備をしていた時、昔の「納涼大会」の準備作業と、今年の「盆踊り大会」の準備作業、「現場の雰囲気がよく似ている」と感じました。どちらも「きつい肉体作業」でしたし、大勢の人が関わる「共同作業」だったのですが、「文句をつける人」や「愚痴を言う人」は皆無でした。全員が、「そのイベントを楽しみにして集まってくる人々の事を想像しながら」、和気藹々と体を動かしている様子でした。(そんな中で出来た人間関係は未だに健在です)

「納涼大会の当時」、私の歳は「四十代前半」で、「今年の盆踊り大会」では「七十歳」になりました。その間、時間としては三十年近い隔たりがあります。なのに、皆さんが一緒になって作業する雰囲気は、どちらも同じだと感じたのです。盆踊り大会の準備作業を手伝っている人には、四十代の人も大勢いて力強く働いていました。

機敏に動くその姿は、まるで「若い頃の自分」を見ているようでした。「俺も年取ったもんだ」そんな事を考えると、感慨深いものがありました。

世の中「世知辛く」なっていますが、「ボランティア活動」などを含め、このような、人の為に「労力を惜しまず、汗を流す様子」に、爽やかさを感じます。

この飛行船、今でも倉庫の天井にたたんだ状態で在ります。記念の品物です。